小説は小説家にしかわからない

 本日の東京新聞の大波小波にめちゃおもしろいことが書かれていた。
 まとめ引用すると、保坂和志高橋源一郎が去年の「文藝」冬号(古っ!)で、「小説は小説家にしかわからない、評論家はもういらない」と発言したのに対し、笙野頼子が「評論家でもちゃんと西洋哲学を理解している評論家ならいい読みはいくらもできる」(爆笑!)と反論し、さらに文藝評論家の田中和生が「そもそもポストモダンの教訓とは、読むことが書くことと同義であることにあったのではないか」と疑義を呈しているという。で、大波小波の書き手は、保坂や高橋は、評論家から長篇が評論の対象にされない鬱憤だろう、と言い、評論家が書き下ろし評論の一冊も上梓すれば、前言撤回間違いなし、と皮肉を言う。さらに、書き手は、「三島由紀夫中上健次がかかる傲慢な言辞を吐かなかったのは、評論家に相手にされているという確信を抱いていたから」と言い、続けて、高橋や保坂の作品が評論家の精緻な批評の対象にならないのは、「彼らの作品がもとより体系的に編集されすぎていて、無意識的な部分が皆無だからである。これでは評論家はつまらないだろうなあ」と述べる。
 いやあ、こんな楽しい論争をしていたとは知らなかった。しかしそんな経緯をまじめに追うほど閑もないので、ここはあくまでネタとして、大波小波に書かれていることだけで、いちゃもんをつけてみる。
 まず「小説は小説家にしかわからない、評論家はもういらない」。文脈をとっぱずしちゃうと、ほんと、バカみたいな愚痴だよね。前半だけ見たら、じゃあ読者は、小説家以外、いらないのかよ、ということにもなる。なんてせせこましい。田中和生が言う、「読むことと書くことが同義(同じ意味ってことはないでしょ、明らかに違うから。じゃなくて等価で、互いにないと存立しない。共依存w、じゃなくて、双方向的な同等性)」という主張は、このあたりから攻めたものだろう。小説は基本的に他者に読まれるために書かれるのであり、評論家というのは、単に読者の一人で、自分が読んだ作品について、その読みを言語化する人のことだ。読者と評論家の境界はきわめて曖昧であり、Amazonのレビューに見るように、読者はたやすく評論家ともなる。正常と異常の境目同様に、グラデーションなのである。小説家だって読者をすれば、評論家になる。というか、ものを書いているくらいだから、なりやすい。危険危険。あ、小説家の評論家はオッケーってこと? それじゃ自分たちを褒めてるだけだよね。だけど実際、評論も小説もすばらしいって人は、少数派なんだなー。
 いや、そもそも、ここで使われている「わかる」っていうのはどういうことか。笙野の発言を援用すると「読める」ということだろう。ここで「読める」というのは、単に字面が読めるっていうことじゃなく、十全に読む、深度をもって読むことが出来る、ということだろう。十全に読むことはとっても難しくて、ほとんどの人にできない。できても言語化はできない。なぜできないなどと言えるかというと、評論や文学研究を読んでいればわかる。まりどれも不完全で、いろいろな見解を足していくと、どうやら十全に近づいていく。しかし、それも時代を経たりすると、例えばサイードが出現してオースティンを批判したように、不完全だったことがわかるわけだ。小説(というか文学)というのはそういうものなのだ。深度をもって読む、ということは、まあ別に訓練すればできる。十全の内の一部でいいんだから。西洋哲学は必要ない。だいたい西洋哲学って何をさしてんの? ヨーロッパの哲学は基本がキリスト教だから、ヨーロッパ文学を読む時には、キリスト教の理解がとにかく必須だけど、日本文学を読む時には必要ないだろ。むしろ仏教とか日本的民俗宗教の感覚をつかんでいることの方が、一般的には大切だろう。印度や中国の思想は、日本文学に大きな影を落としていて、誰も気づかないうちにそれに染まっている。まあそれはいいや。笙野のこれは文芸理論って意味なのかな? しかし、下手にポストモダン的な文学理論にのっとって読んだりすると、全然読めちゃおらん、ということになりかねない。文学理論的に解析的に読むことは、実はそんなに難しいテクニックではないのだ。
 十全に読めたらすごいとは思うけど、普通、小説っていうのは、単に読んだら、それでオッケーなものなんじゃないのか。最後まで読んでもらえて、充実した時間を過ごせた、と言ってもらえたらそれでいいわけで、わかってもらう必要があるのか。そもそも、小説家は自分の書いた小説を本当にわかっているのか? まあだいたい、わかってなんかないと思う。もしもわかっているとしたら、それこそ大波小波の書き手が言うように「体系的に編集されすぎていて、無意識的な部分が皆無」だからで、小説として、それが褒められたことなのかどうかは疑問である。
 小説を読むのは、自分を読むことでもあるのは周知の事実だろう。小説家に読んでもらいたい、と思うなら、小説家ならわかる苦心のあとを、つまりは小説技術を読んでもらいたいというわけだろうか。たぶんそういうことなんだろう、と勝手に結論づける。文脈次第で、全然違う意味になるのは承知の上よ。
 評論家はもういらない、というようなことは、ずーっと昔から言われている。小説家がいなければ小説の評論家もない、だから偉そうに批判するな、評論家は寄生虫だ、てなことは、小説家という職業が確立した19世紀から延々と言われているのである。またかよ。さっきも言ったように、読者と評論家の境は、現代ではあいまいになっている。職業としての評論家について言えば、それは必要悪のようなものというか、文芸界の要請で存在している。御用記事、提灯記事でも書かなきゃ、文芸評論家として喰ってくことは不可能です。さもなきゃ、それこそ小説を表面だけで読んで、何にでも感動できるような、評論家には向いてないような人ならオッケーか。そういう文芸評論を要求しているのは、文芸という業界、それで、誰かがやるんなら俺がやるよ、生活もあるし、というのが文芸評論家。ほかの政治評論家とか軍事評論家とか経済評論家とかは違うのかも知れないけど、こと文芸に関しては、ほんまもんの批評を展開して、業界で生きていけるわけがない。寄生虫的と言えばそうではあるが、寄生して楽な生き方をしている、というわけでは全然無い。批評家には学者(大学の教師)が多いのも、本業は教師で、批評では喰わないで、ちゃんとした批評をしたい、と考える人が多いからだろう。本気で文芸批評なんてする人は、才能のあるなしはいろいろあるけど、マジメな人間が多いと私は思う。少なくとも、私の知っている人はみんなそう。
 よく、偉そうなことを言うなら、書いてみろ、とか小説家は言うんだけど、それは八つ当たりみたいなもん。あんたはプロなんだから、批評されることに耐えないといけない。まずい批評を書いたら、評論家だって批判される。まずい料理を出したら、星は三つつかない。グルメな料理評論家に対して、まずい料理を出したコックが、偉そうなことを言うなら、てめえで作ってみやがれ、とは言わないだろう。内心はそう思うかもね。あるいは、褒めてくれてもご託をいろいろ並べられたらむかっとしたりするだろう。表にそれを出さないってことは、力関係が歴然としているからだ。グルメな料理評論家の方がコックよりも社会的信頼性が高く、社会を動かす力を持っている。だが、文芸評論家はそうでない。だから、小説家たちにそんなことを言われてしまうのである。これも改めて言うようなことじゃないな。
 とにかく、小説家から、もういらない、と言われても痛くもかゆくもないというか、小説家と評論家の関係というのは、互いに必要としているというものではないので、他人事というかね。評論家は語るに足る作品があればよい。小説家が自作への批判を必要としないというなら、それはそれで好きにすれば。小説家にしかわからない、というんなら、第一読者であり、最初の評論家である編集者も要らないってことよね。それとも編集者でも小説も書いている人(結構いる)に担当になってもらうのか(笑)。私は小説家が作品を完成させる途中で意見を差し挟める編集者というのは、非常に重要だと思っているが、聞く耳持たないんなら、良い編集者がついても無駄なだけだしね。
 大波小波の書き手は、細緻な批評の対象にならないからこんなことを言う、と言っているけど、その点はどうなのかわからない。ていうか、「小説は小説家にしかわからない、評論家はもういらない」って、ほんと、これだけじゃ意味をなしてないので、むしろ、単に二人で褒め合ったんだな、という解釈になってしまう。評論されることなんてどうでもよくて、褒めてもらって、自分は偉い作家だと思えればそれでいいんじゃないのかな。
 三島たちがこんな傲慢なことを言っていないかどうかは私にはわからない。どこかで言っているかもしれないから、これは留保。そもそも時代が違うので、大物の評論家というのが、中上さんの若い時までは辛うじていたんだよね。今はそういう権威がないもんね。評論家が不在の文芸界。だから、相手にされるも何も、もういらない以前にいないわけで、やっぱり評論されることを望んではないと思う。

 大波小波を読んだ時は、おもしろいネタだと思ったけど、書いてるうちに、つまらなくなってしまった。やっぱり意味をなしてない言葉をめぐる話だからだな。とんだ尻すぼみ。
 実際、この論争(?)本当はどういう趣旨のものだったんですかね?