《プリンセスチュチュ・続き》 支配と意志のモチーフ

【意志の物語】
 さて、ではここで、先ほども述べた自由意志のモチーフを少し眺めていこう。
《チュチュ》の物語は王子さまに憧れたあひるが、プリンセスチュチュになることを受け入れるところから始まる。《チュチュ》の影響を受けているのではないかと言われる『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)では、乗り気ではないながらも魔法少女になったり、死か然らずんばという状況で魔法少女になることを選択せざるを得なかったりするケースがあるが、あひるが無理強いされることは決してない。プリンセスチュチュをやめたいと思った時にも、続けるように誘導されはするものの、最終的な決定権はあひるにあり、あひるは自らチュチュの道を選ぶ(選ばされているという演出にはなっていない)。
 ドロッセルマイヤーはあひるのことを、ある役割を遂行する者(プリンセスチュチュ)の形代としか思っていないが、あひるにはあひるの思いがあり、意志があり、行動原理がある。あひるは役割を受け入れることで、その役割に必要な能力も同時に手に入れるが、あひるの本質は変わることがないのである。常にみゅうとを案じ、「みゅうとに笑って欲しい」と願う心。それがあひるだ。
 一方、みゅうとの心のかけらの方はというと、ほかの人間の心の隙間に入り込んで、偽物の感情でその人の心を支配してしまう(それほどにみゅうと=王子の心は強い)。チュチュは心のかけらを宿している人を見つけると、「それは本当のあなたの心ではない」と言って、みゅうとの心のかけらの支配から解放していく。実際に他者の心が入り込んでいる状態なので、「本当のあなたではない」という言葉は字義通りのもので、説得力はある。心のかけらを取り戻していく話が中心となる「卵の章」では、「本当のあなた」「自分らしく」といった言葉が頻出する。「本当の自分の受容」という言葉は、どこかの啓発セミナーかお花畑なスピリチュアルかという感じがするので、今どきの言葉に直すと、否定的な自己像を手放し、自尊感情を回復するということになるだろうか。自己を支配している負の感情を手放せば、主体性が回復し、自尊感情も生まれてくるだろう。
 あひる自身についていえば、彼女はきわめて自己肯定的だが、本体が鳥のアヒルであることには葛藤があるという設定になっている。その設定が、25話における「最後の心のかけらである変身アイテムを返せない」話となって現れる。アヒルに戻るということを受け入れられないあひるは、ふぁきあに励まされる。「それが本当のお前なのだからそれでいいではないか、そうなっても自分はお前のそばにいるから」と。他者の承認によって、自己を受け入れることが容易になる。これは、あひる自身が心のかけらを持っている人々に対して実践してきたことだ。あひるもまた、他者から同じようにされることで初めて、真の主体性を手に入れる。《チュチュ》は心理学的な物語なのだ。
 余談だが、前半の第8話のエデル登場シーンには、ふぁきあをどうすべきか問うあひるに、「赤と白のハート型の宝石を示し、この宝石の名前は勇気、二つで一つの宝石」と答えるところがある。このせりふがエデル自身の考えなのかどうかはよくわからないが、11話以降、あひるとふぁきあを支えていくバックボーンのような言葉の一つとなる。エデルの「勇気」の宝石の話は、「雛の章」で通奏低音として鳴り続け、このシーンでついに前面で鳴り響くのである。
 ところで、みゅうと自身は、心が戻るにつれて、恐怖などの感情が回復し、心を戻すチュチュを恐れたりもする。みゅうとの強い心の部分は、大鴉を封印する要所である市の門に使われているため、初めのうちにみゅうとに戻される心は負の感情の心が多く、これでは心など要らないとなっても、おかしくはなない。しかし、みゅうとはやがて、心を取り戻すことを自分の意志とするようになる。みゅうとが「心など要らない」とならないのは、彼が元来はきわめて強い人間で、すべてのものを愛するほどの広い心の持ち主だからだろう。心を失って抜け殻のように生きていてもなお、か弱いものを守ろうとする本能を保ち続ける王子の本質が、自分が真に為すべきこと(心を取り戻し、今度こそ大鴉を退治し、その脅威から人々を守ること)を知っているのだ。みゅうとは《チュチュ》全編を通してか弱く見えるが、彼は最強の強者であり、彼の意志が物語を動かしている。あひるの意志が物語を動かし始め、みゅうとの意志が物語を前進させる。「物語を終わらせる」のもみゅうとの意志だ。みんなが役割がなくなることの恐れから、物語を終わらせたくないと思っているとき、みゅうとだけが物語を終わらせる意志を持っていると、ふぁきあも言っている。
 しかし《チュチュ》の前半では、そんなみゅうとを、ふぁきあとるう(プリンセス・クレール/Krähen からす)は、心がないままに留め、自分の支配下に置き続けようとする。ふぁきあは、大鴉との避けられない戦いからみゅうとを守るという口実のもと、るうはみゅうとに自分だけを愛させるために。二人ともに、みゅうとを愛してており、みゅうとの喪失を恐れるあまり、みゅうとの主体性を奪い、意志を砕き、檻に閉じ込めることをためらわない。ふぁきあは「卵の章」の終盤近く(10回)、育ての親の励ましと、町なかで漏れ聞いた猫先生の「自分の意志」という言葉に触発されて、自分自身の恐れと不安を克服し、みゅうとの意志を尊重するようになる。だが、るうはなかなかみゅうとを縛る愛から抜け出せない。「雛の章」は、るうがみゅうとを縛るために取った行動が、みゅうとを害し、結果的にるう自身を苦しめるという悲劇を中心に展開すると言える。るうの苦悩は、物語の終盤、みゅうとへの無私の愛を自覚し、大鴉の支配から逃れる時まで続く。
 思えばみゅうとは作品全体を通じてほとんど支配され続け、主体的に振る舞うことを許されない。「卵の章」では心を持たないことによって他者の言いなりとなり、「雛の章」では悪の力に心を蝕まれることによって、自分自身を保てない。物語の中の登場人物として、さまざまなことを規定されているみゅうとは、現実世界でもまったく自由ではないのである。同じことは大鴉にも言える。大鴉は飢えから来る欲望の権化であり、すなわち、自分自身のみでは充足できない不自由なキャラクターだが、身体的にも囚われていて、自由とはほど遠い。現実に滲出した『王子と鴉』の物語は、解放を求めて苦闘する。苦闘できるだけの強い意志がそこにある。物語に流されてそうなっているわけではない。彼らは自分の立場を自分で選ぶ、特にみゅうとは随所で自分の意志を示す。繰り返すが、そのことが物語を前へと進めるのだ。
 《チュチュ》は、他者の支配から脱却し、自己を自分の手につかんで、おのれの意志に従って行動することを最高善としていると言えるだろう。
  運命を受け入れる者に幸いあれ。
  運命に逆らう者に栄光あれ。
これはエデルのつぶやきだが、物語の神のような樫の木が語る言葉の一つでもある。
 運命とは、決定論で、《チュチュ》の中では物語そのもののこと。物語の筋書きは決まっていて覆せないとするのが「運命を受け入れる者」。幸も不幸もすべて従容と受け入れる敬虔な人は神の祝福を受ける。一方、「運命に逆らう者」は自由意志によって自ら道を切り開いていこうとする者。筋書きは用意されていないので、自分で書かねばならない、ふぁきあのように。神は人間を自由意志を持つ者として作ったので、それを行使する者は、栄誉を受ける。栄光の道を歩むことを《チュチュ》は良しとするのである。
 ふぁきあがあひるの物語を書くことができるのは、あひるの意志にふぁきあが共感できるからだと言い替えることもできる。他者の意志を尊重せずに、その物語を勝手に書くことは許されないからである。
 各自がおのれの意志を貫いて、悲劇の運命を塗り替え「ハッピーエンド」へと至る。それが《チュチュ》だ。そしてその時、筋書き通りに事を運べなかったドロッセルマイヤーもまた舞台上から去る。先にも述べたように、彼もまたさらに上の階層から見れば物語の人物に過ぎないのだが、ドロッセルマイヤーはその可能性に思い当たりつつも、「そうだとしても好きにやるだけさ」とうそぶく。「運命は変えられない、物語の結末は決まっている」と脅しつつも、ドロッセルマイヤーも結局のところ、自由意志を大前提とし、物語が自分の思いのままにならない(可能性もある)ということを知っているのである。「好きにやろうとする」あひるたちを支配しようとしてかなわず「好きにやられてしまった」が、そのことを肯定しているようにも見える。意志の強者・ドロッセルマイヤー(なにしろ死んでも物語を書くという意志を持ち続けている)は、あひるたちの意志に戦いを挑んで、敗れ去った。自由意志がすべてを決するという物語のモチーフは、ドロッセルマイヤーのセリフによって貫徹されるのである。