文学の未来

東京新聞の「大波小波」から

円城塔「これはペンです」間宮緑「塔の中の女」を取り上げて、褒めている。巧緻さや新しさ。読ませる力。しかし「人物の肉体的存在感はゼロ」で、三浦哲郎などを引き合いに出し、「東北の風土、何より血に深く繋がる小説の〈肉体〉的実感こそ懐かしい」と批判に転ずる。「頭とキーボードで仕上げた小説の、肝ごころの無さが、その行方が気づかわれるのである。文学、これでいいのか」。
文学? もちろんこれでいいのだ。何も円城・間宮だけが小説を書いているわけではないし、彼が文学の未来をすべて背負っているわけでもなんでもない。世の中にはたくさんの小説があり、いろいろなものが書かれていて、それでいいのだ。新しくてかつ読ませる小説なんて、最高のレヴェルだ。それ以上、何を望むのか。
だいたい批評者が言及したボルヘスだって、短編作家だからかもしれないが、肉体的存在感なんてものはからきしなかった。村上春樹吉本ばななにだってない。春樹などは「羊」の頃からそういうことを言われていなかったか。にもかかわらず、春樹の今の持ち上げられ方はどうだ。だから、春樹と較べてもさらにそうなっていて発展性がないというならまだしも、三浦哲郎のように特異な環境に育って〈血〉に深くこだわらざるを得なかった小説家を引き合いに出すのは筋が通らない。二つの別々のことをむりやりにくっつけたような感じだ。

今、長男がドストエフスキーの『白痴』(木村浩訳)を読んでいる。興味はないがおもしろくてすごい小説だと感嘆することしきりである。主人公の公爵はこの世にいそうもない人間だが、この小説はやはり傑作だし、今の若者にもすごいと思わせる力がある。(翻訳もどれだけ正確なのかは知らないが、読みやすい。)150年も前の小説が、文芸として、今なお力を持つ。しかしだからといって、ドストエフスキーのような小説が、今書けるのか? ま、難しいだろう。何が書けるのかは時代にもよるわけだから、物書きは、今、自分に書けること、書きたいことを書くしかないわけである。
で、ドストエフスキーのように残る物は残る。ああ、なに当たり前のこと言ってるんだろう? そしてドストエフスキーのような物が読みたければドストエフスキーを読めば良いし、三浦哲郎みたいなのが読みたければそういうのを読めば良い。これだけたくさんのものが書かれているのだから、よりどりみどりである。
私も論点がずれてしまった。物語の歴史について考え続けていて、頭の中がすっかり未整理になっている。要するにこの「大波小波」を読んで考えたのは、文学の方向性は360度の広がりを持っていて、一つ二つのの作品で全体を推し量ることなんかに意味はないということだ。「文学の危機」とか「文学は死んだ」とか「文学の未来」とか、文学と絡めて大局的な言葉をやたらに使いたがるけれども、その視野はあまりにも狭いのではないかということだ。