詩と小説

大波小波がおかしいのは毎々のことだが、今回は稲葉真弓、詩と小説、家造りという三題噺。正確な引用もかったるいので適当に書くと、詩から小説への脱皮は難しい、稲葉には詩人くささが残っていて内向的で細いところがある、家をつくるとか庭がどうしたというのは散文的で小説に向く、というような内容。稲葉真弓への評価は措くとして、詩と小説、どちらが作るのが難しいかといえば、詩であることは間違いないだろう。素晴らしい詩は簡単には作れないので、みんな戯曲や小説に遁走したのである。小説への脱皮とか、詩人臭くて細いとか、詩に対する言いがかりの数々は何だろう。現代日本の詩がふるわないからといって、文学における詩の立場そのものをバカにすることはない。
アートの様式として、小説は常に詩よりも下に見られてきた歴史がある。今は小説の方が優勢だからといって、小説の方が優れているとは言えないが、詩歌よりも低いというのもおかしな話だ。結局のところ、小説は詩的感興とは別のものを求めるように動いたわけだろう。しかし、やはりアートの一様式であるからには、内的な動機としての詩的感興を完全に捨て去ることはできないと愚考する。おそらく、一般的にはこれは理解されずに看過されるもの、あるいは重きを置かれないことではないか、という気はするのである。ただの情報、ただの物語では仕方がない、そういうものではないものを求めるから文学なのだが、その点は曖昧なままなのではないだろうか。
家をつくることがどのように散文的なのかは私には理解できないのだが、散文的であることと小説であることとはまた別な話であるようにも思える。短篇小説の場合は、長篇とは異なり、明らかに詩的感興で成立するだけのような話も作れるのであって、それを好むか好まないかは、人それぞれだろうが、ともあれ、ことさら散文的である必要はないわけである。いやいや、この散文的という言葉の理解そのものが違うのだろう。散文……うーん、ややこしい気分になってきた。
どうにもまとまりがないが、詩と小説の差異、詩と散文の差異、詩であり小説であることの意味といったものを、こんなにも簡単に割り切れてしまうことが納得いかないのであろう。私の中ではまっくたまとまりがつかないことなので、詩と小説を並べて批評するようなことは、努めて避けたい事項であるわけだ。それをこんなにも軽率な言葉で割り切れてしまうところに、ほとんど憎悪に近いものを感じるのである。