批評の意義

先日の大波小波は珍しくまともだった。
電子出版で個人出版がますます増え、プロもダイレクト発信の可能性があるから、プロアマの見分けが難しくなるという話が基本。で、批評家の役割が増す、と言われているんだそうだ。そこで大波小波の筆者は、そんなことない、今だってツイッターで評判になったら売れるんだ、と言っている。
まったくもってその通り。ものは文芸に限らない。ビジネス書も科学書も、政治経済他社会学関係の書物も、今だって玉石混淆で、本当に良い本(時間と金を掛けるに足る本)が何なのかわからない。みんな、専門家の意見はどうでもいいんだよ。
とはいうものの……今、ちょっとわけあって『文藝』のここ15年ばかりの書評を読んでいる。新聞では普通の書評を書いている人たちも、ここでは普通の人間には到底通じないような話をして、それらの書物に対する嫌気を煽る。こういうことをしていたら、文芸批評の総体が支持されないのも当然だな。……と書きつつ、でも普通の小説読者は文芸誌なんか読まないよね、と思う。理論的に破綻してる(笑)。
そういうことはあっても、一部の批評家は売れているし、今後も読書の先達として重宝されるだろうという意見もあるし、事実でないこともない。しかし総体として、その需要は低く、人々は今日も行き当たりばったりに本を読むのだ。

隠れたベストセラーになるのは、生協が取り上げる本だ。子育ての本や知育の本やダイエットの本や料理の本、そして児童文学がほとんどだが。どういう基準で選ばれたのか、わからない。これはなかなか恐ろしいことである。