『ちえりとチェリー』 父の娘の物語

 物語のモチーフの一つに〈父の娘〉なるものがある。
〈父の娘〉はもともとユング心理学の中に登場した概念で、父親に心理的に寄り添いすぎていて、父権的な父親の価値観を内面化しており、父親が望むような「息子」になろうとする。同時に、愛する父親の恋人でもあろうとして葛藤に巻き込まれる。〈父の娘〉はしばしば母親とは対立するので、女性性が未成熟のまま、成長する。「パパのお嫁さんになる」と言うような「幼い女の子」のまま、大人になるということである。
 このような〈父の娘〉は物語の中にも、しばしば見受けられる。父親のことが大好きな娘が、父親を体現する存在になろうとするストーリー。ヒロインは父親の跡を継ぎ、一見するとかっこいいヒロイン(男顔負けの)を演じている。だが、果敢な行動の隠れた動機が「父親に認められたい」という、情けないものであったりする。例えば『コンタクト』や『トゥームレイダー』のヒロインがそうだ。二人とも死んだ父親に会うことに命をかける。大人の女性としての自立性が疑われる、ある意味で病的なキャラクターと言える。
 さて、『ちえりとチェリー』は、父親にかわいがられ、父親をことのほか愛する娘であるちえりと、父親の代替物とも言うべきイマジナリー・フレンドのチェリーの物語である。これもまた〈父の娘〉の物語の一つと言えるだろう。しかし、『ちえりとチェリー』は上に掲げた『コンタクト』や『トゥームレイダー』と決定的に異なる。すなわち、これは〈父の娘〉から脱却する物語なのである。
 以下、少し詳しく見ていこう。
 ちえりの父親は、「いつもいっしょ」だとちえりに約束したものの、5年前に亡くなっている。ちえりは「約束を違えた」と父を恨むことはない。父の葬儀の時に見つけたウサギのぬいぐるみを、父親の形代としているからだろうか。ちえりは11歳(たぶん)になった今も、父を愛し、「お前の想像力は世界一」という父の言葉を支えに、空想の世界で慰めを得て、生きている。〈父の娘〉のパターン通り、母親とは対立的である。母親の方は、そろそろ現実と向き合ってほしいと思っているが、ちえりは頑なに内面に閉じこもっているという感じだ。
 そんなちえりが、出産で苦しむ母犬の世話をすることによって、生まれては死にする生命の理(ことわり)に目覚める。そして、目を背け続けていたい、恐怖そのものであった父の死と対決し、これを克服するというストーリー展開になっている。味気ない解釈をすれば、生も死も一つのものとして呑み込む母性原理を獲得する道筋ということになるだろうか。
 さて、〈父の娘〉を心理学的に考える場合、父親が娘を支配し続けようとするか、娘を外へ送り出そうとするかで、娘の行く道は異なっていくという。支配は一面では守護でもあるので、父親は娘を守っているつもりで、父親の支配の内に引きとどめることもあるだろう。
 昔話に登場する〈父の娘〉を見てみると、例えば「かえるの王子」の王様は、出て行くのを嫌がる娘を送り出す父であり、「美女と野獣」の父親は、送り出すのを渋って娘を危機に陥れる父である。「美女と野獣」では、娘の方が出て行く決意をして、運命を切り開いていく。
 ちえりはどうか。クライマックスで、父を体現するチェリーは「ちえりは、おとなになるんだ」と言って、ちえりを外の世界へと押し出そうとする。ちえりは「おとなになんかなりたくない」と言って泣く。「かえるの王子」のパターンのように見える。しかし、実のところ、これはちえりの内面の葛藤を外在化させたものなので、ちえりは、究極的には「美女と野獣」のように、自らを外へと押し出そうとしていると言える。ちえりは自ら成長するのだ。
 作品の始めの方で、庭の敷石が海に浮かぶ島となり、何もない場所に椰子の木が一気に成長し、ありきたりの日常の風景が、幻想的な空間へと変貌する。それと同じように——魔法のように——ちえりは自らを励まし、成長させる。
 インナースペースで展開されている葛藤の物語を、ファンタジイとして具現化したこのアニメでは、単純には割り切れない人の心の複雑さが、そのまま描かれている。心の中にはさまざまなものが巣くっている。恐怖の「どんどらべっこ」もまた、ちえりの一部。落ち着きのないねずみも、誇り高い猫も、みなちえりの分身だ。チェリーがそうであるのは言を俟たない。
 ちえりに成長を促すチェリーは、おそらく、ちえりの父親が生きていたらするであろうことをやっている。しかしチェリーはちえり自身なのだ! ちえりは、きわめて深く父親を内面化しているとも言え、その意味ではちえりは、紛れもなく〈父の娘〉であり続ける。だが、同時に、父親にすがって生きることをやめ、一人の少女として自立するのである。
 最後に用意された母親のと和解シーンは、ちえりが病的に〈父の娘〉である状態から脱却を果たしたことを象徴する。「これからもずっと私の……お母さんだから」とちえりは、母の娘であることを宣言するのだから。(しかしこのせりふには違和感がつきまとう。母親の立場から言わせてもらえば、子どもに言われるようなことではない。普通に「お母さんの娘だから」ではいけなかったのだろうか。)母親はそれを受けて、ちえりが〈父の娘〉でもあることを認める。ここで、ちえりという一人の少女が完成したと言えるだろう。
 大切な人の死を乗り越えて成長していくというテーマでこの作品を眺める時、間然するところのない、感動的な作品であることは、誰もが認めるところだろう。
〈父の娘〉というテーマで見ても、この作品は興味深い。言葉を尽くせた気がしないが、さまざまな見方を許容する深度を持った『ちえりとチェリー』について何か言っておきたいと思い、今回は書いてみた。