『神の聖なる天使たち——ジョン・ディーの精霊召喚一五八一〜一六〇七』

 ジョン・ディー。エリザベス朝の魔術師。占星術錬金術をよくし、イングランドの宮廷に仕えたこともある。水晶玉を用いて天使とエノク語で交信し、隠された宝の探索をおこなった。厖大な蔵書の持ち主で、ディーの家は私設図書館の趣であったた。数年にわたって大陸を放浪し、女王エリザベス一世のスパイだったという説もある。
 一般に理解されているジョン・ディー像は、このようなものではないだろうか。オカルトの大家然とした、謎めいた人物。
  このような一般のイメージはともかく、研究家によるジョン・ディー像は、世界の神秘を神からの啓示によって解き明かそうとする、十六世紀的な科学哲学者ということになるようだ。広範な知識を持ち、科学的にものごとを考えることができると同時に、キリスト教という宗教と骨がらみで、その思考法から抜け出せず、神秘的な世界観を持っている……近代以前の世界の、典型的な学者像と言えるだろう。
 一方、ファンタジイやホラーの中で、ディーはしばしば本物の魔術師、真性のオカルティストとして登場し、幾多の不思議をなす。例えばラヴクラフトは、英訳版『ネクロノミコン』の訳者をジョン・ディーであるとした。児童文学のファンタジイ大人向けの伝奇ファンタジイでも、本物の魔術師ジョン・ディーが登場したりする。ディーは歴史上に実在した人間の中で、魔術を弄する人物として描かれる頻度が最も高い人物と言えるかもしれない。フィクションがジョン・ディーをこのように扱うため、一般人の中のジョン・ディー像はより一層、曖昧模糊とする。
 さて、ディーの「魔術師」としてのイメージ。それを最も強く印象づけるのは、彼が天使と交信したという「事実」である。ジョン・ディー自身が、詳細な天使との交信記録、いわゆる『精霊日誌』を後世に遺しているのだ。『精霊日誌』の実際がどのようなものであり、天使との交信がいかなるものであったのか、その内実に迫ったのが横山茂雄の著作『神の聖なる天使たち——ジョン・ディーの精霊召喚一五八一〜一六〇七』(研究社、2016)である。
 内実と言っても、『精霊日誌』の内容を逐語訳的に紹介しているわけではない。『精霊日誌』がそうした紹介には適さないということもあるのかもしれないが、著者が注目しているのは、『精霊日誌』の内容そのものではなく、むしろ精霊と交信する人間の側だからだ。従って本書は、『精霊日誌』の内容を検討するだけでは収まらない。ジョン・ディー自身はもちろんのこと、霊媒として天使との交信を実際に行ったエドワード・ケリーをはじめ、天使召喚に関わったさまざまな人々の動向が、ほぼ時間を追う形で解説されてゆくのである。
 本書を一読すれば、ディーの『精霊日誌』に関わるすべてが、奇々怪々と思えることだろう。そしてその奇々怪々の中から最も鮮烈に浮かび上がってくるのが、人間の心の不可思議さではあるまいか。
 俗説に従えば、「天使との交信」は、霊媒役を務めたエドワード・ケリーによるペテンであり、学者肌のジョン・ディーは騙されたのだ、ということのようだ。しかし著者はそのような単純な見方に異を唱える。エドワード・ケリーはただの詐欺師ではないし、ジョン・ディーも騙されやすい真面目な学者というわけではないと。「天使の交信」では、一筋縄ではいかない摩訶不思議なこと(と言っても超自然的なことというわけではない、理性では律しきれない何かということ)が起こっているのだと主張する。そして「天使との交信」におけるエドワード・ケリーが、単純な詐欺師などとは到底呼べないことを、説得力をもって語っている。
 ケリーの精霊召喚をめぐる一連の行動について考えてみると、まず、詐欺行為にしては見返りがあまりにも薄い。ジョン・ディーは確かに価値ある蔵書を持ってはいたが、金銭的には逼迫しており、優良なカモとは到底言えない。また、「エノク語」による天使との交信は、繁雑をきわめ、期待されるこけおどし効果を遥かに超えている。ケリーは天使との複雑なやりとりに「頭が灼けるようだ」と悲痛の声をあげている。これほどの労苦の果てに、大きな金銭的見返りがなく、ケリーは天使に借金を頼んでいる始末である。
 しかも、ケリーは交信をやめたがっているのに、ディーがそれを許さない。さらに、ケリーは、自分が交信しているのは天使ではなくて、悪魔ではないかという疑いを持っているのに、ジョン・ディーはそれを認めようとはしない。
 著者はこのような一連の情報を『精霊日誌』などからすくい取り、ケリーの精霊召喚がただの詐欺行為などではないことを示す。著者はは執筆動機の一つとして、エドワード・ケリーの名誉回復ということを挙げているが、それを充分に果たす内容と言えるだろう。
 ケリーはジョン・ディーのもとに現れたときにはすでに二十代半ばで、霊媒としては年齢超過気味である。しかしケリーは結果を出した。実際に幻視体質だったのだろう。もっとも幻視の実質が何であるかは分からない。無意識のうちに明晰夢を見る技術だったかも知れないし、過度の想像力を持っていたのかも知れない。ともあれ、ケリーは、自分の見たヴィジョンに巻き込まれる形で、ジョン・ディーの熱狂に影響されつつ、聖霊との交信を続けていく羽目になったのではないか。ケリーとディーは、もろともにオカルトの妖しい力に翻弄されて数年を過ごすが、ついに熱狂の一時期は終熄を迎え、二人は袂を分かつことになる。ディーは別の霊媒を使って精霊召喚作業にいそしみ、ケリーはプラハ錬金術師として名を上げるも、最後には犯罪者として死を迎えるのである。
 本書は、『精霊日誌』の内容の錯雑ぶりや不可解さとは裏腹に、一気呵成に読み進めることのできる、エンターテインメント的研究書である。篤実な研究書であることは、参考文献からもうかがい知れるが、20年以上にわたって書き継がれてきた『精霊日誌』関係のエッセイを一覧することでもわかる。最初期の原稿では、ケリーの経歴は一般的な説に則ったものだ。しかし本書においては、それらは訂正され、ケリーの真実の足跡(と思われるもの)が、明らかにされている。不明の部分は不明のままであるため、ケリーの経歴はやはり瞭然としたものではないのだが、風評的言説は取り除かれ、よりケリーの真実に肉薄したものとなっているのだ。
 オカルティズム、エリザベス朝、天使といったキイワードに惹かれるような読者であれば、本書を充分に楽しむことができるだろう。
 さて、私が本書で最もおぞましく感じたのは、スワッピングを命じるみだらな精霊をなおも天使と信じ続けるディーの熱狂でもなければ、難解きわまるエノク語の暗号操作を、無意識の領域を駆使して成し遂げるケリーの狂気でもなかった。実は、エピローグに当たる部分、ジョン・ディーの息子アーサー・ディーについて記した部分なのである。
 ディーの息子は、ボヘミアへの旅にも同行し、霊媒をいやがるケリーの代わりに、霊媒を務めたりもした。大したヴィジョンを得られなかったようで、霊媒を務めたのはごく一時的なことだったようだ。その彼が後に、エッセイ『医家の宗教』で知られるトマス・ブラウンと知己になり、彼に語ったという言葉が、本書には記されている。「金属変成を目の当たりにした、紛うことなく何度も見た」と。錬金術文献の抜粋要約からなる著書『化学の束』の序文には、「私は七年間というもの錬金術の真実の直接の目撃者であった」とも記している。
 ……こうして、オカルティズムへの熱狂が再生産される、と私は感じた。この世ならぬ力に吸引される、人間の業の深さを、強烈に思い知らされ、暗然とさせられたのである。