《プリンセスチュチュ・続き》 支配と意志のモチーフ

【意志の物語】
 さて、ではここで、先ほども述べた自由意志のモチーフを少し眺めていこう。
《チュチュ》の物語は王子さまに憧れたあひるが、プリンセスチュチュになることを受け入れるところから始まる。《チュチュ》の影響を受けているのではないかと言われる『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)では、乗り気ではないながらも魔法少女になったり、死か然らずんばという状況で魔法少女になることを選択せざるを得なかったりするケースがあるが、あひるが無理強いされることは決してない。プリンセスチュチュをやめたいと思った時にも、続けるように誘導されはするものの、最終的な決定権はあひるにあり、あひるは自らチュチュの道を選ぶ(選ばされているという演出にはなっていない)。
 ドロッセルマイヤーはあひるのことを、ある役割を遂行する者(プリンセスチュチュ)の形代としか思っていないが、あひるにはあひるの思いがあり、意志があり、行動原理がある。あひるは役割を受け入れることで、その役割に必要な能力も同時に手に入れるが、あひるの本質は変わることがないのである。常にみゅうとを案じ、「みゅうとに笑って欲しい」と願う心。それがあひるだ。
 一方、みゅうとの心のかけらの方はというと、ほかの人間の心の隙間に入り込んで、偽物の感情でその人の心を支配してしまう(それほどにみゅうと=王子の心は強い)。チュチュは心のかけらを宿している人を見つけると、「それは本当のあなたの心ではない」と言って、みゅうとの心のかけらの支配から解放していく。実際に他者の心が入り込んでいる状態なので、「本当のあなたではない」という言葉は字義通りのもので、説得力はある。心のかけらを取り戻していく話が中心となる「卵の章」では、「本当のあなた」「自分らしく」といった言葉が頻出する。「本当の自分の受容」という言葉は、どこかの啓発セミナーかお花畑なスピリチュアルかという感じがするので、今どきの言葉に直すと、否定的な自己像を手放し、自尊感情を回復するということになるだろうか。自己を支配している負の感情を手放せば、主体性が回復し、自尊感情も生まれてくるだろう。
 あひる自身についていえば、彼女はきわめて自己肯定的だが、本体が鳥のアヒルであることには葛藤があるという設定になっている。その設定が、25話における「最後の心のかけらである変身アイテムを返せない」話となって現れる。アヒルに戻るということを受け入れられないあひるは、ふぁきあに励まされる。「それが本当のお前なのだからそれでいいではないか、そうなっても自分はお前のそばにいるから」と。他者の承認によって、自己を受け入れることが容易になる。これは、あひる自身が心のかけらを持っている人々に対して実践してきたことだ。あひるもまた、他者から同じようにされることで初めて、真の主体性を手に入れる。《チュチュ》は心理学的な物語なのだ。
 余談だが、前半の第8話のエデル登場シーンには、ふぁきあをどうすべきか問うあひるに、「赤と白のハート型の宝石を示し、この宝石の名前は勇気、二つで一つの宝石」と答えるところがある。このせりふがエデル自身の考えなのかどうかはよくわからないが、11話以降、あひるとふぁきあを支えていくバックボーンのような言葉の一つとなる。エデルの「勇気」の宝石の話は、「雛の章」で通奏低音として鳴り続け、このシーンでついに前面で鳴り響くのである。
 ところで、みゅうと自身は、心が戻るにつれて、恐怖などの感情が回復し、心を戻すチュチュを恐れたりもする。みゅうとの強い心の部分は、大鴉を封印する要所である市の門に使われているため、初めのうちにみゅうとに戻される心は負の感情の心が多く、これでは心など要らないとなっても、おかしくはなない。しかし、みゅうとはやがて、心を取り戻すことを自分の意志とするようになる。みゅうとが「心など要らない」とならないのは、彼が元来はきわめて強い人間で、すべてのものを愛するほどの広い心の持ち主だからだろう。心を失って抜け殻のように生きていてもなお、か弱いものを守ろうとする本能を保ち続ける王子の本質が、自分が真に為すべきこと(心を取り戻し、今度こそ大鴉を退治し、その脅威から人々を守ること)を知っているのだ。みゅうとは《チュチュ》全編を通してか弱く見えるが、彼は最強の強者であり、彼の意志が物語を動かしている。あひるの意志が物語を動かし始め、みゅうとの意志が物語を前進させる。「物語を終わらせる」のもみゅうとの意志だ。みんなが役割がなくなることの恐れから、物語を終わらせたくないと思っているとき、みゅうとだけが物語を終わらせる意志を持っていると、ふぁきあも言っている。
 しかし《チュチュ》の前半では、そんなみゅうとを、ふぁきあとるう(プリンセス・クレール/Krähen からす)は、心がないままに留め、自分の支配下に置き続けようとする。ふぁきあは、大鴉との避けられない戦いからみゅうとを守るという口実のもと、るうはみゅうとに自分だけを愛させるために。二人ともに、みゅうとを愛してており、みゅうとの喪失を恐れるあまり、みゅうとの主体性を奪い、意志を砕き、檻に閉じ込めることをためらわない。ふぁきあは「卵の章」の終盤近く(10回)、育ての親の励ましと、町なかで漏れ聞いた猫先生の「自分の意志」という言葉に触発されて、自分自身の恐れと不安を克服し、みゅうとの意志を尊重するようになる。だが、るうはなかなかみゅうとを縛る愛から抜け出せない。「雛の章」は、るうがみゅうとを縛るために取った行動が、みゅうとを害し、結果的にるう自身を苦しめるという悲劇を中心に展開すると言える。るうの苦悩は、物語の終盤、みゅうとへの無私の愛を自覚し、大鴉の支配から逃れる時まで続く。
 思えばみゅうとは作品全体を通じてほとんど支配され続け、主体的に振る舞うことを許されない。「卵の章」では心を持たないことによって他者の言いなりとなり、「雛の章」では悪の力に心を蝕まれることによって、自分自身を保てない。物語の中の登場人物として、さまざまなことを規定されているみゅうとは、現実世界でもまったく自由ではないのである。同じことは大鴉にも言える。大鴉は飢えから来る欲望の権化であり、すなわち、自分自身のみでは充足できない不自由なキャラクターだが、身体的にも囚われていて、自由とはほど遠い。現実に滲出した『王子と鴉』の物語は、解放を求めて苦闘する。苦闘できるだけの強い意志がそこにある。物語に流されてそうなっているわけではない。彼らは自分の立場を自分で選ぶ、特にみゅうとは随所で自分の意志を示す。繰り返すが、そのことが物語を前へと進めるのだ。
 《チュチュ》は、他者の支配から脱却し、自己を自分の手につかんで、おのれの意志に従って行動することを最高善としていると言えるだろう。
  運命を受け入れる者に幸いあれ。
  運命に逆らう者に栄光あれ。
これはエデルのつぶやきだが、物語の神のような樫の木が語る言葉の一つでもある。
 運命とは、決定論で、《チュチュ》の中では物語そのもののこと。物語の筋書きは決まっていて覆せないとするのが「運命を受け入れる者」。幸も不幸もすべて従容と受け入れる敬虔な人は神の祝福を受ける。一方、「運命に逆らう者」は自由意志によって自ら道を切り開いていこうとする者。筋書きは用意されていないので、自分で書かねばならない、ふぁきあのように。神は人間を自由意志を持つ者として作ったので、それを行使する者は、栄誉を受ける。栄光の道を歩むことを《チュチュ》は良しとするのである。
 ふぁきあがあひるの物語を書くことができるのは、あひるの意志にふぁきあが共感できるからだと言い替えることもできる。他者の意志を尊重せずに、その物語を勝手に書くことは許されないからである。
 各自がおのれの意志を貫いて、悲劇の運命を塗り替え「ハッピーエンド」へと至る。それが《チュチュ》だ。そしてその時、筋書き通りに事を運べなかったドロッセルマイヤーもまた舞台上から去る。先にも述べたように、彼もまたさらに上の階層から見れば物語の人物に過ぎないのだが、ドロッセルマイヤーはその可能性に思い当たりつつも、「そうだとしても好きにやるだけさ」とうそぶく。「運命は変えられない、物語の結末は決まっている」と脅しつつも、ドロッセルマイヤーも結局のところ、自由意志を大前提とし、物語が自分の思いのままにならない(可能性もある)ということを知っているのである。「好きにやろうとする」あひるたちを支配しようとしてかなわず「好きにやられてしまった」が、そのことを肯定しているようにも見える。意志の強者・ドロッセルマイヤー(なにしろ死んでも物語を書くという意志を持ち続けている)は、あひるたちの意志に戦いを挑んで、敗れ去った。自由意志がすべてを決するという物語のモチーフは、ドロッセルマイヤーのセリフによって貫徹されるのである。

《プリンセスチュチュ》と物語 (長い!)

プリンセスチュチュ》(以下《チュチュ》と略)は2002年8月から翌年5月にかけてテレビ放映された連続アニメである。間もなくBDが発売されるのを記念して、このアニメについて、物語の側面から論じたい。

《チュチュ》は「変身魔法少女もの」に属するアニメ・オリジナル作品で、卵の章13話、雛の章13話、計26話からなる。
 総監督は佐藤順一、監督は河本昇悟、各回の絵コンテ・演出には、監督のほか、佐山聖子をはじめとする数名が参加している。
 物語の原案は、アニメーターの伊藤郁子で、キャラクターデザインも担当。シリーズ構成は横手美智子。脚本は、横手のほか、池田眞美子小中千昭佐藤卓哉中瀬理香が執筆している。
 連載もののオリジナル・アニメの場合、どこまで考え抜かれた脚本になっているのか不明な点も多いため、あくまでも全作品を一貫した作品として扱う。
 
メタフィクションとしての《チュチュ》】
 バレエ学校に通う少女あひるは、本当は鳥のアヒル。不思議な宝石の力によって人間に変身している。しかも少女あひるからさらに変身して魔法のバレリーナプリンセスチュチュ」となり、不思議な力を使うこともできる。あひるはその力を使って心を失った憧れの先輩みゅうとの心を取り戻してあげる。だがみゅうとの心はまた悪の王・大鴉を閉じ込める鍵でもあった。みゅうとが心を取り戻すにつれて大鴉の力は強まっていく。少女あひるは、悩みながらも心を取り戻す作業を続け、ついにすべての心を取り戻したみゅうとは大鴉と戦う。

 これが物語の概略。このようにまとめると、単純な作品のように見える。ミッションをクリアし、アイテムをゲットすると、次のステージに進むことのできる、宝探し系ファンタジイのパターン。
 だが、実は《チュチュ》にはメタレヴェルの設定が用意されている。それは、あひるのいる世界が「書かれた」物語に支配された世界だという設定である。果たして主たる視聴者である子どもに理解できるのか?と思われるような、高度なメタ設定が組み込まれていて、この主筋からは思いつけないような複雑な物語を展開する。最終的に《チュチュ》は類例のない、ユニークな作品となった。
 このメタ設定をもとに物語を書き直してみよう。

 かつてドロッセルマイヤーという物語作家がいた。彼の物語は現実を変える力を持っていたが、その力を忌まれて、腕を斬り落とされ、死んでしまった。だがドロッセルマイヤーは死ぬ直前に、「死後も物語を書き続ける」という物語を書いていたため、死んでもその力のいくぶんかを振るうことができた。
 ドロッセルマイヤーの最後の作品は『王子と鴉』というもので、王子が悪の大鴉と戦う物語だったが、未完に終わった。時を経て、未完のままに終わった物語を不満に思う登場人物、王子と鴉が物語の外に飛び出した。そして現実(あひるたちのいる世界)で戦いを繰り広げる。王子は自分の禁断の術を用いて、心臓を取り出すと、それを砕いて大鴉を封じた。心臓を失った王子は、自分の意志を持たない抜け殻のような存在となり、少年ふぁきあに保護され、みゅうと(Mythos 神話)と名づけられる。
 それから十年ほどの年月が静かに過ぎた。『王子と鴉』に悲劇的な結末を用意していたドロッセルマイヤーは、現実が動かないことに苛立っていた。そして、水辺で踊る王子を垣間見て憧れたアヒルに目を留める。「王子が笑顔を取り戻す手助けが出来るのなら、それ以上に望むことはない」と慎ましく語るアヒルに、ドロッセルマイヤーは〈プリンセスチュチュ〉の役割を与える。プリンセスチュチュは『王子と鴉』の中で、美しく強く賢く、すべてを与えられているが、王子に愛を告げると光の粒になって消えてしまうという設定の少女。彼女こそ、王子の心臓のかけらを集めて王子に戻すことが出来る唯一の存在であった。(おそらく未完の『王子と鴉』の中では、その設定だけが書かれていて、実際には登場していないのだと思われる。)ドロッセルマイヤーは、アヒルに魔法の宝石を与え、人間の少女あひるに、さらにプリンセスチュチュに変身できるようにしたのである。あひるは、ドロッセルマイヤーの望む通りに心臓のかけらを集めて、王子に戻し始める。

 《チュチュ》はこのように、物語から登場人物が抜け出し、現実を攪乱するというタイプのメタファンタジイになっている。同様の設定は、ピランデルロの戯曲「作者を探す六人の登場人物」(1921)を嚆矢として、およそ一世紀の歴史がある。本邦でも井上ひさしの『ブンとフン』などの作例があり、近年ではアニメやゲームから抜け出てくるというパターンもあるが、作品としてはおおむねドタバタコメディや、ご都合主義的なハーレムコメディとなって現れ、シリアスなファンタジイとなることは少ない。一方外国文学にはジョナサン・キャロル死者の書』、チャールズ・デ・リント『リトル・カントリー』など、物語を現実に変える力を持つ作家が登場し、シリアスで、どちらかと言えばタークなテイストのファンタジイがある。
 物語に現実を変える力があるとすれば、その脅威は測り知れず、ピランデルロのような寓話でなければドタバタかダーク・テイストになるのは必然と言えよう。《チュチュ》は後者の路線を取ったと言えるだろうか。物語の及ぶ範囲が一つの町の中だけと設定しているのも、後者の路線で真剣に設定を考えた結果だろう。
 日本の小説界では、このような物語が滲出するタイプのシリアスなファンタジイの長編は、管見の及ぶ限りでは書かれておらず、物語界全般を見渡しても、メタファンタジイとしての《チュチュ》は、かなりの異色作と言える。細部では設定の乱れが見られるものの、ドロッセルマイヤーの語りを、物語を解説するナレーションの一種のように挿入することで、作品のメタ構造を担保している。つまり、ストーリーが「物語の運命」(作者が想定した筋書き)に操られて進んでいくことを常に視聴者に意識させる。ドロッセルマイヤーの登場のさせ方はアニメならではの演出であり、小説で同じようなことをするのは相当な困難が伴うはずだ。
 ドロッセルマイヤーが、当初はチュチュの願いを叶えてくれる善良な魔法使いであるかの如く登場しつつ、実は悲劇を成就させたいだけの心の歪んだ存在であることが、徐々に明らかとなってゆくので、彼のナレーションの数々は物語への脅迫にも見えてくる。加えて、ドロッセルマイヤーが毎回ラストに「お話の好きな子どもは寄っといで」と言うため、お話が好きであることに何か悪いイメージがまつわりつく。(ドロッセルマイヤーはその容貌も笑い声も無気味なので、子どものトラウマになるのではないかと思われるほどだ。)かなり不穏なファンタジイであり、その不穏さはジョナサン・キャロルの、一見夢物語のようだが実は凶悪な『死者の書』にも似ている。

 ところで、現実に容喙できる、このドロッセルマイヤーというのは何者なのだろうか。死んでもなお意志を保ち続け、まれに時間を止めることさえもできる。しかし、現実を支配できるわけではない。彼は「物語の筋書き」を用意して、筋書き通りにことが進むように誘導し、彼の好む悲劇的な結末へ持っていこうと努力するだけ。そしてあひるをはじめとする登場人物の行動を見守りながら「もっとお話を聞かせておくれ」とねだる。彼自身には物語を書くことができないかのようだ。
 ドロッセルマイヤーは、「キャラクターたちが勝手に動いて物語の方向を決めた」などと語ることがある作家のパロディなのだろうか? あるいは、作品が手を離れたら、それがどのように受け取られるかは受け手次第という、アーティスト一般の寓意なのか。いずれにせよ、《チュチュ》の中のドロッセルマイヤーは中途半端な存在だ。主要キャラクターたちは、物語と現実が混じり合った状況の中に生きていることを知ってはいるが、物語の書き手(ドロッセルマイヤー)に操られているという風には描かれていないのだから。
 私は、《チュチュ》におけるメタ的な物語のあり方に、神と悪魔と自由意志の寓話を見ずにいられない。
 神は、悪魔が人を試すことを許し、堕落(神からの離反)をも許すが、それは人間の自由意志を尊重するからだ。悪魔にはマイナスの力(空虚)しかなく、何事かを為す力(それがたとえ堕落であれ)はない。それを持つのはあくまでも人間であり、人間のみがその力を行使し得る。善かれ悪しかれこの世を作り上げているのは人間——これが〈自由意志〉という考え方である。悪魔は人間を穢す筋書きを考え、人間はその筋書きにはまることも許されているが、それは人間の意志による。悪魔の筋書きを凌駕する力を神は人間に与えたので、人間はその筋書きから抜け出すことができるのだ。
 ドロッセルマイヤーは、決定的な力を持たない、悪魔の同類に見える。ドロッセルマイヤーがあまりにも人間の可能性の範疇を超えているため、そう見えてしまうとも言える。アヒルドロッセルマイヤーの「人間の女の子にしてやろう」という誘惑を受け、自ら選ぶ。自ら選べば、ドロッセルマイヤーは力を与えることができる。まったく悪魔以外の何だろう。
 ドロッセルマイヤーの現実改変能力を信奉する青年あおとあ(Arthur アーサー)は、「この町は物語に支配されているのだ」と歓喜するが、物語の侵入を受けたというべきだろう。ドロッセルマイヤーが力を持つというよりも、書かれた作品が力を持っているのだ。そしてその作品自身が、みずからこの世に躍り出る。たとえ大鴉をこの世に現出させたのがドロッセルマイヤーの力だとしても、死んだ彼はその後の物語を構築しきれないでいる。登場人物は勝手に動き、ドロッセルマイヤーの意のままになるわけではない。自身が物語を動かすために利用したあひるもまた勝手に動く。さらには、ドロッセルマイヤーの意を体現して動く人形のエデル(Edel  高貴な)にしても、あひるたちをドロッセルマイヤーの望む方向に誘導しつつも、自らの意志を持つようになる。
 このように悪魔によって役を割り振られた人々は、誘導され、その役を演じているかの如くだが、実のところ、すべては人々の生の力に負っている。自動人形さえも、人形という範囲を超えて勝手に生き始めるのだ。終盤、どうしても人々が自分の思う通りに動かないので腹を立てたドロッセルマイヤーは、あひるを捕まえて自分の操り人形に過ぎないということを思い知らせようとする。しかしあひるは自分の意志を貫き、ドロッセルマイヤーの桎梏をふりほどいてしまう。ドロッセルマイヤーは単なる悪霊であり、本当は力がないのだ。
 こうして考えてゆくと、《チュチュ》はメタフィクションとしての部分も含めて、自由意志をめぐる物語であると見えてくるわけである。この話題にはあとでまた少し触れることして、もう少しメタフィクションの部分について見ていこう。
 物語が現実を変えるという設定は、物語の人物が現実に出現して不思議な現象を巻き起こすということのほかに、舞台の金冠町自体が、ファンタジックな町になっているという形でも表現されている。金冠町の門をくぐると(実際には人々はいきなり金冠町に出現する、物語の始まりはいつも突然だからである)、ある者は動物に変身してしまうのだが、誰も——町に住む者も外から町に入ってきた者も——そのことを不思議には思わない。また、この町では伝説が本当になるという設定もある。この設定を用い、悲恋に泣いた女の亡霊が人を取り殺そうとする、「ジゼル」をモチーフにした回があるが、これは後続がなく、単発で終わってしまったので、この方向での充実はなかった。
 その一方で「雛の章」も後半に入ると、物語をめぐって別のストーリーが現れてくる。青年ふぁきあがドロッセルマイヤーの子孫であり、物語を現実化できる書き手だというこのである。《チュチュ》全体を通して、王子=みゅうとの保護者(=騎士)であるふぁきあ(おそらくFakir イスラーム神秘主義の修行者・原意は「貧者」で、神に依存する者という意味)は、『王子と鴉』の中に登場する「王子を守る騎士」の末裔という設定である。騎士は物語の中の存在で、物語の外に出たことはないため、この設定は奇妙な感じがするのだが、これは物語から派生した伝説なのかも知れない。あるいは体に風変わりなあざの遺伝を持つふぁきあの一族が、逆に物語の中に取り込まれたということも考えられる。ともあれ、ふぁきあはみゅうとの騎士を自認し、剣で彼を守ろうとし続ける。
 だが、自分の能力を自覚し、物語を書くことの方がみゅうとを守ることができると考えるようになったふぁきあは、「剣をペンに持ち替えて」みゅうとを守る物語を書こうとするようになるのである。それと同時に「図書の者」という集団が出現する。ドロッセルマイヤーの腕を斬り落とした者の子孫で、物語の能力を使おうとする者を断罪するという役目を代々言い伝えてきた者たちだ。ドロッセルマイヤーが書いた物語の結末を破り捨て、物語が現実に滲出しないようにした、と自負する。彼らはドロッセルマイヤーが陰で糸を引いていることに気づくと、ドロッセルマイヤーの力に対抗できるのはふぁきあだけかもしれないと言って、ふぁきあに後を託して去って行く。
 しかしこの「図書の者」の主張には無理がある。なにしろ未完の物語からでさえ、登場人物が抜けだして、現実をかき回すのである。そして「図書の者」はそれを阻止することも出来なかった。この一事を見ても、結末を破けば、物語の力を削ぐとは言えそうにない。さらに、「図書の者」によれば、ドロッセルマイヤーは物語を綴るからくりによって金冠町を支配していると言う。そこまで理解しながら、からくりに近付くこともできない。使命があるという自負だけで長らえてきた虚しい集団である。
 「図書の者」は言論を弾圧し、検閲する者のパロディなのだろうか? だが「図書の者」の一人は古書店を経営しているという設定であり、このことが示しているのは、弾圧者というよりは、本の世界を支配したいのが「図書の者」であるということではないか。だとしたら、それは愚かしい夢だ。厖大な本の世界を支配できるものなど存在しない。
 支配、これもまた《チュチュ》の大きなモチーフの一つだが、今はふぁきあの話に戻ろう。「図書の者」との対話を通して、ふぁきあは自分が戦うのは大鴉ではなく、ドロッセルマイヤーなのだと悟る。ドロッセルマイヤーの作り上げた悲劇的な筋書きを阻止することがふぁきあの役目なのだ。このことを知ったドロッセルマイヤーは、物語の中の人物に過ぎないふぁきあが作者を凌駕することが出来ようかとうそぶく。こうしたセリフにはメタフィクションの感覚があふれていて、《チュチュ》における現実は、ドロッセルマイヤーの語る物語なのだと感じさせる。だが実際には、ふぁきあはドロッセルマイヤーが作り上げたキャラクターではなく、ドロッセルマイヤーの子孫だ。そしてドロッセルマイヤーが操ろうとしている人物に過ぎない。『王子と鴉』は、しょせんは未完の本で、ドロッセルマイヤーはそれが完成している世界を構築することはできないし、死後に続きを書くこともできなかったのだ。
 このシーンの後、物語が書けなくて悩むふぁきあのもとにドロッセルマイヤーが現れ、ふぁきあの腕を乗っ取って物語を綴るというシーンがある。そういうやり方で、ドロッセルマイヤーはあひるを死に追いやろうとするのである。ふぁきあの抵抗によって、その企てはうまくいかないのだが、このシーンがまさに、死後のドロッセルマイヤーが実際には自分で物語を書く力がないことを示している。からくりが動いて物語を綴っているいるにしても、それはおそらく概要にすぎず(例えば金冠町が遮断されていて、不思議が不思議でなくなっているということなど)物語の細部まで綴ることなどできないのに違いない(最終回でからくり機械が描かれてい場面を見ると、なにやら細かく描かれているのが見えるが、しかし何を綴っているというのか、かなり理解に苦しむ。「金冠町の出来事を物語にして書いている」というふぁきあの発言も因果が逆転した見方だ。)。
 同じシーンで、ドロッセルマイヤーは「物語に責任を持とうとしているから書けないのだ。自分の欲望のままに書けば良い」と、ふぁきあにアドヴァイスしている。「物語に人々の運命が握られているからには、責任を持たずに書けるか」と、ふぁきあはこの言葉をはねのけるわけだが、そのふぁきあがあひるの物語は書くことができる。なぜか。あひるのことは責任を持たなくて良いからというわけがあろうはずもない。ふぁきあが自分の思いのままに綴る言葉が、決してあひるを損ねることがないという深い確信があるからではないか。あひるを愛しているからというよりは(もちろん愛していることも大事なのだろうが)、あひるの生き方や願いを心から理解している(という無意識の確信がある)からなのだ。
 《チュチュ》のクライマックス。ついにすべての心臓のかけらがみゅうとに戻り、ジークフリードとして目覚めた王子と、完全に解き放たれた大鴉との対決の時。今や魔法の力を失い、アヒルに戻ったあひるにできることはない。にもかかわらず、あひるは踊る。あたかもまだプリンセスチュチュであるかのように。踊るあひるをふぁきあの物語が支える。ふぁきあが不屈のあひるを書くことによってあひるに力を与え、踊り続けるあひるが希望の光となって世界を照らし、王子に力を与える。
 ファンタジイでは、魔法の力か剣の力か愛の力か、自身の力に押しつぶされるというパターンも含め、いずれ何らかの力によって悪は滅ぼされる。物語が魔法として使われるとき——よくあるのは〈魔法の本〉に何かを書き込むとか、自然に書き込まれるとかそういうものだが——たいていは書かれたことそのものが魔法の呪文のように力を発揮して、滅びをもたらす。物語が後方支援に使われるという例は非常に珍しいのではないだろうか。しかもそれは、直接の対決者たる王子を支援するものですらない。にもかかわらず、その物語の存在が、勝利を導くのである。なんという微妙なセッティング。そしてこの、あひるとふぁきあのコンビネーションは、きわめて感動的で、元来ユニークなこの作品をよりいっそう独特なものにしているのである。
 大鴉が退治された後、みゅうとは、現実界の少女るうを伴い「お話の世界」へと帰るのだが、塔の上から、白鳥の引く車に乗って、去ってゆくのだ。いったい「お話の世界」へはどのように至るのだろうか? 空の彼方の魔法空間に「お話の世界」があるのだろうか? そして王子はともかく、るうはどのように居場所を見つけるのだろう? ふぁきあはみゅうとに「好きに生きればいい」と語るのだが、果たして「お話の世界」の生とは何だろうか? 物語の魔法が消えると、金冠町の人たちは、すべてを忘れ、何事もなかったように生活しているように描かれている。だとすれば、そうなった瞬間に、本の中へと王子は消え去っても良さそうなものだ。そして、金冠町での出来事は、物語としてすべて書き込まれている……。実際にはそうではなく、あたかも、別世界とたまたま繋がってしまったパターンの話のように終わるのだ。メタフィクション的な感覚がやや狂う、悩ましいラストである。
 とはいうもののそのあとのドロッセルマイヤーの登場がそれを補っている。彼は「このお話はもう終わりだ」と言う。ドロッセルマイヤーにとっては、あくまでも、「お話」はふぁきあやあひるも含めての物語なのである。そして、うずらを連れて去って行く。またどこかで物語を書いて楽しもうというつもりなのであろう(なのでやはりあのからくりには意味がないのだ。)。そしてはたと思う。「もしかして自分も誰かの作った話の中の人物なのかも?」と。それは《チュチュ》の世界のさらに外側にいて、超メタな視点を持つ我々から見れば、正しい。《チュチュ》の中では上位の視点にいるドロッセルマイヤーも、しょせんお話の中の人物に過ぎない。こうしてメタフィクション特有の効果、現実の我々の人生も、上位の視点から見られている虚構なのではないかと疑いを抱かせる効果をもって幕を閉じる。主たる視聴者の子どもたちにこの作品のメタフィクションとしての意味が分かるかどうかはともかく、物語にこだわり続けて26話を語りきったのは見事というほかない。

 ここまでのメタフィクションの構想がどこから得られたものなのかはよくわからない。ただ、佐藤順一監督が本作以前に手がけた『ストレンジドーン』(2000、全13話)でも、メタフィクショナルな設定を用いていたことは注記しておきたい。原作及び総監督・佐藤順一、監督・河本昇悟、音楽・和田薫、シリーズ構成及び脚本横手美智子という布陣、各話タイトルにオペラのアリアを使用するなど、《チュチュ》に先んじたこの作品は、異色の異世界召喚ファンタジイ。魔人として召喚されながら、特殊能力を得るでもなく、ただ体が大きいというだけで何もできない二人の女子校生の惑いを描いたものだ。この中で、女子校生の一人は別世界ファンタジイを執筆しており、また異世界の女性も、戦争の現実から逃避するために、別世界ファンタジイを書いている。女子校生のそれは召喚された異世界のようなファンタスティックなもので、異世界の女性の方は、渋谷を舞台にした女子校生の話で、それはあたかも互いが互いを夢みるようなものであった。この作品は解決を見ないまま唐突に終わり、彼女たちの小説についての説明も特にないため、この設定がもたらす効果も薄いが、現実=物語られている世界という考え方を垣間見せてはいる。ここから《チュチュ》へと飛躍させるには、あまりにも足りない設定でしかないが、念のために書き留めておく。
 

『この世界の片隅に』先行上映を観て

 2001年夏、アニドウなみきたかし)から会報が来て(メールだったかもしれない)、『アリーテ姫』を片渕須直が作ったから観に行け、と言ってきた。すごく丁寧に作られているとても細やかなアニメ、というようなことで絶賛しているが、私は「えー、いまいち行きたくない」と思ったのだった。というのも、この原作『アリーテ姫の冒険』がとんでもないクズ作品であるにもかかわらず、「フェミニズム童話」の傑作などと言われているのを片腹痛い思いで眺めていたからだ。しかし、なみきたかしが絶賛するなら、アニメーションとしては凄いのだろうと思い、しぶしぶ観に行った。おそらく有楽町。
 で、冒頭から相当な改変。姫は城を抜け出して庶民の暮らしを眺めに行く。生活するために働く人々のさまざまな手作業が丁寧に描かれていく(アニメーション制作は4℃)。この世界を愛し、自らの未来に胸躍らせて、私になにが出来るだろうと考える聡明な姫の造形は、非常に魅力的で、フェミニズム童話のヒロインに相応しい。そして話が進むに連れ、原作にケンカを売るかのような展開に。(後に片渕監督のコメントを見ると、翻訳が原書とは違ったとのこと。私はその点、未確認。)あまりのおもしろさに快哉を叫ぶ。そうだ。これこそがフェミニズム・ファンタジイだよ!
 ここで片渕須直の名前は頭にしっかりと刻まれた。
 ウィキペディア片渕須直が関わった作品を見てみると『名犬ラッシー』以外は、コンテ作に至るまでほぼ見ているのではないかと思う(単なる偶然だが)。
 それで、クラウドファンディングの情報が流れてきた時、反射的にお金を出した。最終的に、もしかしたら作品にならないかも知れない、という可能性は考えたが、がっかりするようなものを作られてしまう、というようなことは、まったく考えなかった。
 それから原作を読んだ。なるほど。『アリーテ姫』のように、自分の居場所から引きはがされて初めて、自分の道をたどり始める少女の成長物語だった。ヒロインはいくつかの分岐点で、自ら道を選んでいくのだけれども、逃げない道を選ぶ。やっぱり『アリーテ姫』と重なった。ファンタジイではないし、舞台が広島と呉で戦時中だから、凄惨だけれども、とことん前向き。これも同じ。
 うーん、片渕須直って、公式には男みたいだけど、実は女なんだな(笑)。先行上映の舞台挨拶で、お金がなくなって、一家四人の一食分が100円という状況になったこともあった、大根の皮干して食べた、などと語っていて、ああ、やっぱり(笑)。
 それはともかく、クラウドファンディングの出資者向けに進行状況が送られてきて、現実の再現ということにとても意を砕いているのだな、ということはわかった。そして、先行上映で見たそれは、漫画がそのまま自然に動く、美しいアニメーションだった。物語もそのままなので、『アリーテ姫』の時のような大きな驚きはないけれど、アニメならではの色、形、動き、そして映画だけの音があって、「嗚呼」と思うことがしばしばあった。
 ストーリーとして感動的だというのは、原作者・こうの史代が凄いのであって、アニメ製作者の手柄ではない。少なくとも、原作の魅力を損なわないというのは最低ラインだから(それをできていない作品が多数あるということは、ここでは何の関係もない)、そこのところに力点を置くのは、何か違う感じがするのだが、しかしそうすると、なかなか言葉が出て来ない。

 先行上映のあと、山梨に帰れないかも知れないと思ったので、友人宅に泊めてもらった。そこで明治期の工芸の話になり、清水三年坂美術館の本物そっくりの、象牙を刻んだ筍の話が出た。
http://www.sannenzaka-museum.co.jp/news.html
なるほど。アニメはこの筍だ。
筍の実物(現実の出来事)があって、その美しさに魅了されて画家は絵を描いた(こうの史代の漫画)。その絵を見て、筍ってこんなに美しいんだ、と思った彫刻師は、絵と実物を見ながら、筍を彫った(片渕監督のアニメ)。
 アニメの中ではより立体的に過去の風景が再現される。多くの人は、よりリアルに過去を感じることだろう。人々が現に生きていた、その世界を、私たちは自分の過去の風景の一つとして、記憶することができる。そんなことは言えるだろうか。

 先行上映の時に、このアニメはみなさんのおかげで出来たのだから誇ってくれと言われたのだが、アニメを誇りに思うのは、やっぱり違う気がする。私が作ったわけじゃない。ただ、片渕須直に注目して、ちゃんと支援できた自分は誇りに思ってもいいんじゃないだろうか。素晴らしいアニメーションが作られることに、わずかながら力を貸せたことを。

#この世界の片隅に こうの史代のファンの方へ。このアニメは原作のファンを決して裏切らない。「このアニメになって良かった」と言ってもらえるような作品だと思う。公式ガイドブックに掲載された、こうの史代のメッセージは「皆さんと一緒に泣いたり笑ったり出来る日を楽しみにしています!」
#この世界の片隅に こうの史代の原作のすべてがアニメに活かされたわけではないから、このシーンが、このセリフが抜けてる、ということはあるだろう。もしも抜けてて悲しかったら指摘して。原作にはこんなところもあったのだ、と知ってもらえる。
#この世界の片隅に アニメを通してこうの作品を読み直して、改めて気づかなかった細部に気づいたり、やっぱりここが素晴らしいと思ったり。アニメ化で原作の読者も増えると思うから、原作のファンには、漫画ならではの魅力も発信してもらいたい。

#この世界の片隅に ヒロインすずは昭和元年生まれ。なお健在の私の義母と同じ年だ。義母は大阪に住んでいたが、避難していて、そこから大阪が赤く染まるのを見たという。そして沖縄戦で兄を失くしている。団塊の世代から私ぐらいまでの世代にとって、すずの物語は母親の物語でもあるのだ。

#この世界の片隅に 戦争末期の広島と呉が舞台。東洋一とも言われた軍港、そして海軍工廠のある呉。大きな空爆目標の地である。そして広島になにが起きるか、知らぬ日本人がいるだろうか。この作品は海外でも観られることになるだろう。けれども、日本にいる私たちが観るのと、それは違うだろう。→そんな作品なのだから、海外で評価されて、日本では評判にならなかったというのでは、本当に悲しい。

#この世界の片隅に 片渕須直は戦前日本の航空機関連について詳しいそうで、戦闘機が飛ぶと、舅が「良い音させとる」とか言うわけだ。軍事面でも考証の見直しをおこなったということで、原作との違いを、この方面にまったく疎い私でも、一、二箇所は指摘できる。
#この世界の片隅に ミリオタにも見所の多い作品なのではないだろうか。アニメと原作の違い、アニメにおける軍事方面の表現などについて、詳しい分析を期待したい。わたくしにはまったくわからない方面。
#この世界の片隅に ミリオタばかりじゃない、料理研究家やら戦前の風俗研究家やら……どうですか、この表現は?と聞いてみたい思いに駆られる。自分は文芸以外は、本当に知らないなあ。見た目がどんなものだったやら、まではリアルに考えてはいない面もある。

#この世界の片隅に この日常を生きるすべての人に観てほしい。日々を生きるのは、辛くて苦しくて、でも幸いであるということを感じる。そんなアニメであると思うけど、特別に観てもらいたいと思うのは、戦争をしたい人たち、人を平気で戦地に行かせる人たちかもしれない。

#この世界の片隅に フェミニストにはまず『アリーテ姫』を観てもらいたい。それから、『この世界の片隅に』を観に行ってほしい。主体的に生きることのままならない状況で、いかにして自分を守り、育てながら生きていくのか。こんなことが描かれているアニメは滅多にないのだ。

(この部分について★著作権放棄)

『ちえりとチェリー』 父の娘の物語

 物語のモチーフの一つに〈父の娘〉なるものがある。
〈父の娘〉はもともとユング心理学の中に登場した概念で、父親に心理的に寄り添いすぎていて、父権的な父親の価値観を内面化しており、父親が望むような「息子」になろうとする。同時に、愛する父親の恋人でもあろうとして葛藤に巻き込まれる。〈父の娘〉はしばしば母親とは対立するので、女性性が未成熟のまま、成長する。「パパのお嫁さんになる」と言うような「幼い女の子」のまま、大人になるということである。
 このような〈父の娘〉は物語の中にも、しばしば見受けられる。父親のことが大好きな娘が、父親を体現する存在になろうとするストーリー。ヒロインは父親の跡を継ぎ、一見するとかっこいいヒロイン(男顔負けの)を演じている。だが、果敢な行動の隠れた動機が「父親に認められたい」という、情けないものであったりする。例えば『コンタクト』や『トゥームレイダー』のヒロインがそうだ。二人とも死んだ父親に会うことに命をかける。大人の女性としての自立性が疑われる、ある意味で病的なキャラクターと言える。
 さて、『ちえりとチェリー』は、父親にかわいがられ、父親をことのほか愛する娘であるちえりと、父親の代替物とも言うべきイマジナリー・フレンドのチェリーの物語である。これもまた〈父の娘〉の物語の一つと言えるだろう。しかし、『ちえりとチェリー』は上に掲げた『コンタクト』や『トゥームレイダー』と決定的に異なる。すなわち、これは〈父の娘〉から脱却する物語なのである。
 以下、少し詳しく見ていこう。
 ちえりの父親は、「いつもいっしょ」だとちえりに約束したものの、5年前に亡くなっている。ちえりは「約束を違えた」と父を恨むことはない。父の葬儀の時に見つけたウサギのぬいぐるみを、父親の形代としているからだろうか。ちえりは11歳(たぶん)になった今も、父を愛し、「お前の想像力は世界一」という父の言葉を支えに、空想の世界で慰めを得て、生きている。〈父の娘〉のパターン通り、母親とは対立的である。母親の方は、そろそろ現実と向き合ってほしいと思っているが、ちえりは頑なに内面に閉じこもっているという感じだ。
 そんなちえりが、出産で苦しむ母犬の世話をすることによって、生まれては死にする生命の理(ことわり)に目覚める。そして、目を背け続けていたい、恐怖そのものであった父の死と対決し、これを克服するというストーリー展開になっている。味気ない解釈をすれば、生も死も一つのものとして呑み込む母性原理を獲得する道筋ということになるだろうか。
 さて、〈父の娘〉を心理学的に考える場合、父親が娘を支配し続けようとするか、娘を外へ送り出そうとするかで、娘の行く道は異なっていくという。支配は一面では守護でもあるので、父親は娘を守っているつもりで、父親の支配の内に引きとどめることもあるだろう。
 昔話に登場する〈父の娘〉を見てみると、例えば「かえるの王子」の王様は、出て行くのを嫌がる娘を送り出す父であり、「美女と野獣」の父親は、送り出すのを渋って娘を危機に陥れる父である。「美女と野獣」では、娘の方が出て行く決意をして、運命を切り開いていく。
 ちえりはどうか。クライマックスで、父を体現するチェリーは「ちえりは、おとなになるんだ」と言って、ちえりを外の世界へと押し出そうとする。ちえりは「おとなになんかなりたくない」と言って泣く。「かえるの王子」のパターンのように見える。しかし、実のところ、これはちえりの内面の葛藤を外在化させたものなので、ちえりは、究極的には「美女と野獣」のように、自らを外へと押し出そうとしていると言える。ちえりは自ら成長するのだ。
 作品の始めの方で、庭の敷石が海に浮かぶ島となり、何もない場所に椰子の木が一気に成長し、ありきたりの日常の風景が、幻想的な空間へと変貌する。それと同じように——魔法のように——ちえりは自らを励まし、成長させる。
 インナースペースで展開されている葛藤の物語を、ファンタジイとして具現化したこのアニメでは、単純には割り切れない人の心の複雑さが、そのまま描かれている。心の中にはさまざまなものが巣くっている。恐怖の「どんどらべっこ」もまた、ちえりの一部。落ち着きのないねずみも、誇り高い猫も、みなちえりの分身だ。チェリーがそうであるのは言を俟たない。
 ちえりに成長を促すチェリーは、おそらく、ちえりの父親が生きていたらするであろうことをやっている。しかしチェリーはちえり自身なのだ! ちえりは、きわめて深く父親を内面化しているとも言え、その意味ではちえりは、紛れもなく〈父の娘〉であり続ける。だが、同時に、父親にすがって生きることをやめ、一人の少女として自立するのである。
 最後に用意された母親のと和解シーンは、ちえりが病的に〈父の娘〉である状態から脱却を果たしたことを象徴する。「これからもずっと私の……お母さんだから」とちえりは、母の娘であることを宣言するのだから。(しかしこのせりふには違和感がつきまとう。母親の立場から言わせてもらえば、子どもに言われるようなことではない。普通に「お母さんの娘だから」ではいけなかったのだろうか。)母親はそれを受けて、ちえりが〈父の娘〉でもあることを認める。ここで、ちえりという一人の少女が完成したと言えるだろう。
 大切な人の死を乗り越えて成長していくというテーマでこの作品を眺める時、間然するところのない、感動的な作品であることは、誰もが認めるところだろう。
〈父の娘〉というテーマで見ても、この作品は興味深い。言葉を尽くせた気がしないが、さまざまな見方を許容する深度を持った『ちえりとチェリー』について何か言っておきたいと思い、今回は書いてみた。

『神の聖なる天使たち——ジョン・ディーの精霊召喚一五八一〜一六〇七』

 ジョン・ディー。エリザベス朝の魔術師。占星術錬金術をよくし、イングランドの宮廷に仕えたこともある。水晶玉を用いて天使とエノク語で交信し、隠された宝の探索をおこなった。厖大な蔵書の持ち主で、ディーの家は私設図書館の趣であったた。数年にわたって大陸を放浪し、女王エリザベス一世のスパイだったという説もある。
 一般に理解されているジョン・ディー像は、このようなものではないだろうか。オカルトの大家然とした、謎めいた人物。
  このような一般のイメージはともかく、研究家によるジョン・ディー像は、世界の神秘を神からの啓示によって解き明かそうとする、十六世紀的な科学哲学者ということになるようだ。広範な知識を持ち、科学的にものごとを考えることができると同時に、キリスト教という宗教と骨がらみで、その思考法から抜け出せず、神秘的な世界観を持っている……近代以前の世界の、典型的な学者像と言えるだろう。
 一方、ファンタジイやホラーの中で、ディーはしばしば本物の魔術師、真性のオカルティストとして登場し、幾多の不思議をなす。例えばラヴクラフトは、英訳版『ネクロノミコン』の訳者をジョン・ディーであるとした。児童文学のファンタジイ大人向けの伝奇ファンタジイでも、本物の魔術師ジョン・ディーが登場したりする。ディーは歴史上に実在した人間の中で、魔術を弄する人物として描かれる頻度が最も高い人物と言えるかもしれない。フィクションがジョン・ディーをこのように扱うため、一般人の中のジョン・ディー像はより一層、曖昧模糊とする。
 さて、ディーの「魔術師」としてのイメージ。それを最も強く印象づけるのは、彼が天使と交信したという「事実」である。ジョン・ディー自身が、詳細な天使との交信記録、いわゆる『精霊日誌』を後世に遺しているのだ。『精霊日誌』の実際がどのようなものであり、天使との交信がいかなるものであったのか、その内実に迫ったのが横山茂雄の著作『神の聖なる天使たち——ジョン・ディーの精霊召喚一五八一〜一六〇七』(研究社、2016)である。
 内実と言っても、『精霊日誌』の内容を逐語訳的に紹介しているわけではない。『精霊日誌』がそうした紹介には適さないということもあるのかもしれないが、著者が注目しているのは、『精霊日誌』の内容そのものではなく、むしろ精霊と交信する人間の側だからだ。従って本書は、『精霊日誌』の内容を検討するだけでは収まらない。ジョン・ディー自身はもちろんのこと、霊媒として天使との交信を実際に行ったエドワード・ケリーをはじめ、天使召喚に関わったさまざまな人々の動向が、ほぼ時間を追う形で解説されてゆくのである。
 本書を一読すれば、ディーの『精霊日誌』に関わるすべてが、奇々怪々と思えることだろう。そしてその奇々怪々の中から最も鮮烈に浮かび上がってくるのが、人間の心の不可思議さではあるまいか。
 俗説に従えば、「天使との交信」は、霊媒役を務めたエドワード・ケリーによるペテンであり、学者肌のジョン・ディーは騙されたのだ、ということのようだ。しかし著者はそのような単純な見方に異を唱える。エドワード・ケリーはただの詐欺師ではないし、ジョン・ディーも騙されやすい真面目な学者というわけではないと。「天使の交信」では、一筋縄ではいかない摩訶不思議なこと(と言っても超自然的なことというわけではない、理性では律しきれない何かということ)が起こっているのだと主張する。そして「天使との交信」におけるエドワード・ケリーが、単純な詐欺師などとは到底呼べないことを、説得力をもって語っている。
 ケリーの精霊召喚をめぐる一連の行動について考えてみると、まず、詐欺行為にしては見返りがあまりにも薄い。ジョン・ディーは確かに価値ある蔵書を持ってはいたが、金銭的には逼迫しており、優良なカモとは到底言えない。また、「エノク語」による天使との交信は、繁雑をきわめ、期待されるこけおどし効果を遥かに超えている。ケリーは天使との複雑なやりとりに「頭が灼けるようだ」と悲痛の声をあげている。これほどの労苦の果てに、大きな金銭的見返りがなく、ケリーは天使に借金を頼んでいる始末である。
 しかも、ケリーは交信をやめたがっているのに、ディーがそれを許さない。さらに、ケリーは、自分が交信しているのは天使ではなくて、悪魔ではないかという疑いを持っているのに、ジョン・ディーはそれを認めようとはしない。
 著者はこのような一連の情報を『精霊日誌』などからすくい取り、ケリーの精霊召喚がただの詐欺行為などではないことを示す。著者はは執筆動機の一つとして、エドワード・ケリーの名誉回復ということを挙げているが、それを充分に果たす内容と言えるだろう。
 ケリーはジョン・ディーのもとに現れたときにはすでに二十代半ばで、霊媒としては年齢超過気味である。しかしケリーは結果を出した。実際に幻視体質だったのだろう。もっとも幻視の実質が何であるかは分からない。無意識のうちに明晰夢を見る技術だったかも知れないし、過度の想像力を持っていたのかも知れない。ともあれ、ケリーは、自分の見たヴィジョンに巻き込まれる形で、ジョン・ディーの熱狂に影響されつつ、聖霊との交信を続けていく羽目になったのではないか。ケリーとディーは、もろともにオカルトの妖しい力に翻弄されて数年を過ごすが、ついに熱狂の一時期は終熄を迎え、二人は袂を分かつことになる。ディーは別の霊媒を使って精霊召喚作業にいそしみ、ケリーはプラハ錬金術師として名を上げるも、最後には犯罪者として死を迎えるのである。
 本書は、『精霊日誌』の内容の錯雑ぶりや不可解さとは裏腹に、一気呵成に読み進めることのできる、エンターテインメント的研究書である。篤実な研究書であることは、参考文献からもうかがい知れるが、20年以上にわたって書き継がれてきた『精霊日誌』関係のエッセイを一覧することでもわかる。最初期の原稿では、ケリーの経歴は一般的な説に則ったものだ。しかし本書においては、それらは訂正され、ケリーの真実の足跡(と思われるもの)が、明らかにされている。不明の部分は不明のままであるため、ケリーの経歴はやはり瞭然としたものではないのだが、風評的言説は取り除かれ、よりケリーの真実に肉薄したものとなっているのだ。
 オカルティズム、エリザベス朝、天使といったキイワードに惹かれるような読者であれば、本書を充分に楽しむことができるだろう。
 さて、私が本書で最もおぞましく感じたのは、スワッピングを命じるみだらな精霊をなおも天使と信じ続けるディーの熱狂でもなければ、難解きわまるエノク語の暗号操作を、無意識の領域を駆使して成し遂げるケリーの狂気でもなかった。実は、エピローグに当たる部分、ジョン・ディーの息子アーサー・ディーについて記した部分なのである。
 ディーの息子は、ボヘミアへの旅にも同行し、霊媒をいやがるケリーの代わりに、霊媒を務めたりもした。大したヴィジョンを得られなかったようで、霊媒を務めたのはごく一時的なことだったようだ。その彼が後に、エッセイ『医家の宗教』で知られるトマス・ブラウンと知己になり、彼に語ったという言葉が、本書には記されている。「金属変成を目の当たりにした、紛うことなく何度も見た」と。錬金術文献の抜粋要約からなる著書『化学の束』の序文には、「私は七年間というもの錬金術の真実の直接の目撃者であった」とも記している。
 ……こうして、オカルティズムへの熱狂が再生産される、と私は感じた。この世ならぬ力に吸引される、人間の業の深さを、強烈に思い知らされ、暗然とさせられたのである。
 

井上輝夫を偲ぶ会

 今年の8月25日に井上輝夫先生が亡くなった。葬儀は27日に、松本の浅間温泉にある神宮寺で、無宗教で執り行われたけれども、急なことで、また松本という地理の問題もあって、会葬者は限られていた。そこで、鷲見先生や柳谷先生のご尽力で、昨夜、偲ぶ会が開かれた。
参会者は百人を優に超え、どなたがどなたなのか見当も付かず、ご挨拶することも出来なかった。残念である。
 会の様子と、生前、先生から聞いた話とを併せて記しておきたいと思う。
司会は鷲見洋一先生。20秒の黙祷に続いて、鳥居泰彦元塾長による別れの言葉。
 鳥居先生が話されたのは、井上先生の大学での経歴と、すぐ田舎に引きこもるので、隠棲するのかとはらはらしていると、ちゃんと大学や慶応高校(New York)で活躍してくれた、というようなこと。
 それから白いカーネーションを、親戚の方々や身近な方が手向けた。歓談の合間に誰でも自由に献花してくださいと言われたので、私も一本、供えました。
 そうして、中部大学理事長の飯吉厚夫先生による献杯
 飯吉先生について、井上先生は、「ぼくが安曇野のすばらしさを喧伝したところ、実際に訪れて、やはり安曇野に惚れ込んで、すぐ近くに別荘を入手した」とおっしゃっていて、「ぼくではなく、安曇野の魅力にやられたんだ」と強調しておられた。気の合わない人のそばに、だれが好んで来るものですか、と思ったけれど、黙って聞いておいた(笑)。井上先生は安曇野が大好きで、安曇野を好きになってくれることの方に価値を置いたのだと思う。

 歓談の時間をはさんで、親しい友人の方々が偲ぶ言葉を述べられた。
 吉増剛造さんは、井上先生の鋭い眼光に射すくめられた、何をやってる、と言われたような気がしたという話と、井上先生の母君が「てるちゃん」と呼んでいた思い出と、戦後の貧困時代に妹さんたちを亡くしていて、そういう重い物を裏に隠し持っていたと思うというような話しをされた。
 吉増さんやドラムカンで一緒だった人たちの話は、大学時代にもよく聞かせてもらったし、再会したおりにも、もちろん話に出た。吉増さんの最近の詩業についても、すごいものだという話にはなっても、否定的な話は私との間では出なかった。現代詩の行方にとても厳しい見方をされていたという話は、献辞の合間にも出てきたのだけれど、あまりそういう話はしなかった。むしろ世界情勢そのものを憂うというような、大きい方向の話で私とは盛り上がった。文学の話は、また今度と、自分は考えていたのだと思う。次はない、ということが人生ではしばしば起きるということを失念していた。
 次がSFCを一緒に立ち上げた富山優一先生。井上先生のことを戦友・同志とおっしゃっていたけれども、井上先生の方も思いは同じであったと思う。立ち上げの時に、並んだPCに電源が入った時、新しい時代を感じたと井上先生はおっしゃったが、SFCは時代に先駆ける、大学改革の成果であった。
 沓掛良彦先生は、訳詩集を井上先生が褒めてくれたのをきっかけに付き合いが始まったという。(礒崎さんによると、書評を井上先生が書かれとのこと。)沓掛先生のことも、大事な親友の一人として名前を挙げて、とても楽しそうに、どんな人物なのかを話された。「変わったやつで……」。井上先生が最新の詩集を出された後、沓掛先生は、その詩業が素晴らしいと思って、とにかく逢いたくなって病室を訪ねたという。まさかその二週間後に亡くなるとは(絶句)と。実際に逢った数は多くはないが、大事な大事な心の友、「私は詩を書かないから詩友とは言えないけれど」。いやいや、だって詩を訳されるのだから、沓掛先生だって詩人ですよ、まさに詩友でしょう。井上先生もそう思っておられるでしょう。
 それから教え子代表として、SFCの第一期生の曽我晶子さんが話をされた。卒業後にもOBゼミをやって、先生と読書会をしたりしたとのこと。その博覧強記と鋭い見識に心酔していたという話。曽我さんの話も話題になったことがあった。「ぼくの教え子で、オーストリア大使館に勤めているのがいて……」。オーストリアの文化を日本人にもっと広く知ってもらうために何が出来るかということの相談に乗っておられたようである。
 井上先生の教え子さんのことでは、ほかにも相談されたことがあって、面倒見が良いというのか世話焼きというのか。情熱的でかつさっぱりした、その感じは、関西人というより、江戸っ子気質な感じ。私は、学生時代は、先生は江戸っ子だと信じて疑っていなかった。
 そのあと秋田勇魚さんによるギター演奏(アルハンブラの思い出)。秋田さんは、國枝孝弘先生(井上先生の教え子の仏文学者で、詩の弟子でもある)のゼミ生だそうな。
 そして親族代表で従兄弟の本間京太郎氏(井上先生の父上と本間さんの母上がきょうだいだそう)の挨拶で閉会となった。
 お嬢さんの摩耶さんは体調不良で欠席となったが、代わりに全員にメッセージが配られた。

 二時間あまりの会であった。ご挨拶できなかったみなさん、ごめんなさい。いいトシをしてああいう席での振る舞い方が判っていません。
 いつかまたみなさんにお目にかかれるでしょうか。

 
 


 
 


 

ラディカル・シンカー浅羽通明の書き下ろし直販についてのお知らせ

浅羽通明からのメールを転載します。

☆★浅羽通明の書き下ろし新刊電子書籍『「おたく」・職能・世間ー稲葉ほたて氏、宇野常寛氏を駁す』、直販のお知らせ!★☆

浅羽通明辻説法は6月を持ちましていったん終了させていただき、現在、再起動を模索している途上です。YouTube上の講義も同時に閉じさせていただきました。
今回は、辻説法の内容をもとにした電子書籍のご案内をさせていただきます!!
2015年はじめ、Webマガジン「PLANETS」へ掲載された若き論客稲葉ほたて氏の浅羽通明論に対しては、二月の辻説法のなかでもアンサーを試みました。それは必然的に浅羽の往時からいままでの仕事を振り返り諸テキストを体系的に概説する内容となりました。ゆえに図らずも、古くからの浅羽読者の方から、浅羽通明の仕事の全体像を大変わかりやすく自解してもらえてありがたかったと感想をいただきました。
そこで、その折りの稲葉ほたて氏および「PLANETS」編集長宇野常寛氏の浅羽論へのアンサーをさらに徹底し、だいたい新書一冊分(280枚強)となったテキストをこのたび直販する運びとなりました。
浅羽の「おたく」批判の真意は何だったのか?
浅羽の「職能論」は古すぎたのか?早すぎたのか?
浅羽は「世間」を肯定したのか?そうでないのか?
浅羽の「職能論」と「世間論」との関係は?
こうした根本的テーマを軸としつつ、いつもながらの小ネタ、脱線、余談をふりまきつつ語られる等身大の思想巷談をぜひお楽しみください!
なお特別付録として、1991年暮れ、浅羽が宮台真司氏へ言及し、後に氏が「ひどい誤読」「ひどいでたらめ」(『日本の文化人』噂の真相社)「事実誤認」(『限界の思考』)と罵倒した“流行神”no58の該当部分を完全復刻してお届けいたします☆

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