諏訪哲史・領土

領土

領土

幻想短篇集。興味深く読んだ。
メタフィクションとしての趣向も持つ。初めてこの作家の作品を読んだが、どうやら元来メタフィクション的な方向性を持っているようである。この方向にはもうさしたる実りはないんじゃないかという気がするのだが、小説家としては、こうして手に入れた方法論というかアイテムというかガジェットを、なかなか手放したくはないのだろう。だが、読んでていて奥泉光ノヴァーリスの引用」をもろに想起させてしまったりするのはよくない。
個人的好みから言えば、外枠を塗りつぶすデザインは趣味が悪く、インクの無駄としか思えないし、分かち書きも紙の無駄だとは思う。
この作品を読んだきっかけは、例によって「大波小波」で、小説で詩を試みた、というか詩なのにむりやり小説だと言っているとかなんとか書かれていたからで、面白そうだから、読んでみようと思った次第。
結論的に言って、分かち書きなどを多用しているけれど、詩とは言えないだろうなあ、というのが私の感覚である。このあたりは、もう感覚的な問題にならざるを得ない。なぜなら詩とは何かについて、コンセンサスが存在するわけではないからである。
最初に「幻想短篇集」と書いた如く、幻想小説として、別に過不足があるわけではない。しかも多くが「夢小説」という系列に吸収できる。分かち書きでも、内容が小説なら小説である。
で、詩だと思わせるものは、結局のところ、リズムと韻律という音楽的なもの。朗読できるか、もうちょっと譲歩して、頭の中で声に出せるか、というところだ。古来の叙事詩は、日本以外の国では、脚韻とか頭韻のパターンを持つ、つまり韻を踏むというところで成立している。日本だと七五調がそれに当たる。古典的でない、モダニズムの詩にも、それなりの韻律というものがあり、内的なある韻律があって、詩だと感じさせる……ことが多い(一般論である)。私はモダニズムの詩のもたらしたものはそれだけではないと思うが、しちめんどくさい話はなしにする。とにかくこの点に留意して、『領土』を読んだ。
「湖中天」などが典型的だが、出だしは明らかに詩のようである。独特の韻律があって、とても良い感じ。しかし、詩としては長いので、だんだんそれが崩れてくる。七五ではなく韻律を作っているので、しかし一方鏡花のようなリズムとも違うので、それが非常に緊張を要する作業だというのは理解できる。だから、どうしても後半は普通の小説になってしまうのである。
その試みたところは、まずもって立派というほかない。小説の可能性ということを考えても、非常におもしろいと思う。だけど、分かち書きにして、それを強調しなくても良いとは思う。そして、読者は、せめて文芸評論家はそれを読み取ってあげなければいけない。
夢小説では、例えば百間などがすぐに思い浮かぶけれど、あの作品を詩ではないものにしているのは何か?というようなこともちょっと考えさせられた。また、鏡花のあの韻律に満ちた文章を詩ではないと思うのはなぜか。長さの問題なのだろうか? 言葉のエネルギーの問題なのだろうか? あまりにも抽象的だが、やはり一語の持つエネルギーの問題であるような気がするな。そういうことを考えても、諏訪哲史の挑戦は、非常に好ましいものであるということが言えるだろう。