『かぐや姫の物語』原作とフェミニズム

きのうツイッターで書いてみたが、何か気分が悪いので、改めて書いてみる。
竹取物語』は神仙思想の影響もある作者不詳の物語で、昔話ではない。「物語のいできはじめの祖(おや)」などと称される日本最古の小説作品だ。いろいろなヴァージョンがあるが、アニメは、その一つにかなり忠実。改変されているのは、主にかぐやの心情であり、またそれを導き出すための捨丸という木地師の少年の存在である。次が翁の立ち位置で、嫗の存在の強調もアニメ的改変である。
竹取物語』では、かぐやの美は圧倒的なものとされる。彼女がいると室内が光り輝くので、誰もが「くらっ」と来て当然の存在。帝のように、どんな美女でも思いのままの人が、一目見て忘れられなくなってしまうのだ。で、そういう絶世の美女をどうやって絵画的表現にするか、これは、大昔からの難題なのだが、ここはアニメではあっさりスルー。ちょっと可愛い女の子にして、みんなが大騒ぎするのは、噂が噂を呼ぶからだ、という風にしてしまった(直接は言っていないが、たぶんそうだろう)。これによって、原作でも諷刺的に描かれていた貴族社会の愚かしさを一層強調しているのだろう。
竹取物語』の昔では、帝を完全にコケにすることは出来ないので、かぐやが帝の手から逃れるのは超常的な能力を見せてこの世のものではないと感じさせたことによるのだが、アニメでは現代的に、帝も貴族とほぼ同列に描かれ、かつ、かぐやが出自を思い出す契機となっている。このあたりはなかなか巧みな改変である。
『竹取』のかぐやは意思が非常にはっきりした女性である。天人だという出自を自覚しているので、「私が死んだらお前を守ってやれない、だから結婚して後ろ盾を持て」と真っ当なことを言う翁に対して「男の愛情なんて信じられない」と返す。
ここで平安時代の婚姻制度を考えてみると、基本が婿入り婚だから、かぐやのように、財産も美貌もあるというのは、結婚相手として理想的なわけである。かぐやの方からすれば、才覚も愛情もない男と結婚して、彼女を守るべき財産が荒らされるのはご免だ、ということになる。かぐやは立場的にも非常に強くて、男を選べるのだ。まあ、普通なら、今は官位が低くとも才能のある男か、官位があって誠実な男を選ぶんだろうな。かぐやは月の人なので、人間の男なんぞ相手にはしないのだが。
原作では、かぐやは翁の気持ちを尊重して、じゃあ残った五人の男にまことを見せてもらいましょう、と宝採りを命ずる。かぐやは最後まで翁への育ててくれた恩を口にし、月へ去るのが悲しいのも、老父母を見捨てる悲しさである。父と娘の関係は、アニメよりももっとずっと親しく、かぐやは自分の心情をきちんと父に伝えている。父も道理を説いて聞かせる。アニメのように一方的ではない。
アニメでは、野生の子のように育ったかぐやが、一方的に都入りさせられ、姫教育を受ける。反抗したり憂鬱になったり小さな庭を作って故郷を偲んだり……お前はハイジか!(と自分が大嫌いなアニメを作った監督の作品であることを思い出した)。ここで説得力がないのが、かぐやは速成人間で(原作だと三ヶ月ぐらいで成人する。アニメでもたぶん一年過ごさずに大人になる)、実は自然とのっぴきならない関係になんかなっていないこと。彼女はハイジでもなければ、もののけ姫でもないのである。彼女はちっとも生きてはいない。ちょっと自然と遊んだだけで、苦労も知らないまま、都会生活に入ってしまった。そして都会生活は三年以上と長い。その間、狂女となっての出奔はあっても、真剣に生きることを求めた形跡がない。もうあとがないというところまでくると、小さい頃に憧れた人(既に妻子持ちになっている)に出会って、「あなたとならどんな苦労も出来る」とか、絶対に無理そうなことを口にしてしまう。ダメだろ、このキャラは。ていうか、ほとんど女性という物に対する悪意を感じさせるキャラ設定である。
 月の世界は人らしい感情のない世界であるというのは原作がそうなのだけれど、だから原作のかぐやはかなり感情が薄い、理性の人である。でも翁には親子の愛情を感じている。天人だから、あくまで上から目線だけど。平安時代で、女の優位がこんなに露骨に描けたのは、月の人だという設定だったからである。
一方、アニメでは、言いたいことがきちんと言えない女である。理性的ではないので、理路整然としゃべれない。言いたいことをため込んで爆発するタイプ。でもって最後は男に頼る。
かぐやとは真逆である。だから、かぐやの難題提出をそのまま流用したところでちぐはぐになるのだ。
これは要するに、おっさんがこういうフェミ・モチーフを持った原作をアニメにすると、どうなるか。その典型なのだ。
魔女の宅急便』で宮崎駿がキキに対して行った操作と同じ操作が為される。すなわち、一人では問題解決能力がなく、他力本願な女への改変である。
角野栄子の原作では、キキはドジっても自分一人で問題を解決し、前進していく。宮崎アニメでは彼女は一人ではおろおろするばかりで、周囲の助けで何とかやっていく。その方が感動を生むのかも知れない。人間は世間の中で生きていく存在で、一人では生きられないのだから。だが、そんな風に改変しなくとも、人との交わりは描ける。キキが自立した女として生活をしていき、そして同時に人々とつながっていく話は描ける。現に角野栄子はそうしているのだ。
おっさんの作り上げた女々しい女が足掻く作品に、人々が感動するとき、私は、女を無力化しようとする大きな網の中に自分が囚われているような気持ちになる。
アニメのかぐやを「面倒な女」と言っているブログがあった。原作と較べるとき、わざわざ「面倒な女」にしているのは、監督の意志であることがわかる。そのこころは?
こういう、さまざまな面で「不自由な女」が共感を得るのだろうか。どこで、誰から?
アニメ『かぐや姫の物語』に対する否定的な意見は多くない。しかし、みんなが何に感動しているのか、本当にわからない。単純に泣ける話でもない。むしろ泣くことを拒否する「いやな話」なのに。
原作を知らなければ通り過ぎることも原作と較べてしまえば、動かしようのない何かがあることに気づかされてしまう。
文学をなりわいとしている私だから、そこを単に通り過ぎることはできないのだ。

黎明の書

二ヶ月連続刊行で一気に読まれる方もいるだろうと思うので、核心には触れずに筆を進める。

 聖都のやり手商人ド・ラペの世話になったのも束の間、都は「堕天使」めいた貴種・イリヤのせいで混乱の中に突き落とされる。
 前巻より登場したナタナエルをはじめ、戦乱に巻き込まれていくさまざまな人々の背景、そして混乱の元凶であるイリヤの出自などを描き、おもむきは大河絵巻風。物語としては混乱と破壊が起きる、というだけの巻なので、暴動を含め。いろいろな局面での、さまざまな形の戦いが描かれ、とにかくたくさんの人(貴種も)が死ぬ。
 その中で我らが主人公たちはわずかずつ成長していき、イオアンもだいぶ大人になる。ラウルは特別な存在であることがあからさまになっていくが……。
 そして外伝のファンは喜べ、今後は完全に話が合流して、アイーシャは大活躍である。
 五巻ではようやく上王の都までたどりつき、宮廷陰謀劇が炸裂。物語としてはこちらの方がおもしろいだろう。

 どちらの巻にも権力のある女性が登場し、貫禄を見せる。
 そして少年たちの友情と成長が無理なく描かれる。
 篠田真由美のおはこ。

 このシリーズは、いろいろな背景を詰め込んでいる感じはするが、全体として世界観に無理がなく、良い意味で海外ファンタジイのような趣がある。
 日本の出版事情は、『七王国の玉座』あるいは『王たちの道』のごときものを邦人作家に許容しないであろうが、そのような中で健闘していると感じる。
 
 SFにならずに終わってくれと願う。
 
 
 

伊賀一筆

伊賀一筆 (伊賀一筆)

伊賀一筆 (伊賀一筆)

名張の図書館の属託職員として、『江戸川乱歩執筆年譜』ほかのレファレンスブック編集に当たった中相作さんが個人誌を出版した。
乱歩の学生時代に編集製作した『奇譚』を抄録したいとの思いから創刊号にして終刊号という雑誌を製作。とにかくものすごい情熱である。
『伊賀百筆』に掲載していた名張図書館裏話も収録。
(関連ページhttp://www.e-net.or.jp/user/stako/20130927.pdf

224ページの雑誌(!)の100ページを『奇譚』にあて、残りが、図書館と名張の話、及び乱歩著書目録補遺(2002-13)。
このマニアックな雑誌がちゃんとアマゾンで売れているから、乱歩マニアってすごい……。(売れてる状況を名張人外境で中さんが報告している。http://www.e-net.or.jp/user/stako/

庭園詩集

庭そのものを中心に据えると、やはり詩ということになる。

漢の景帝(在位紀元前一五七〜同一四一)の弟、梁王は豪壮な庭園を築いた。梁園
あるいは兎園【とえん】と呼ばれる。王はここに多数の客を招き、豪遊したという。
後世、兎園をモチーフにした漢詩が多く作られた。例えば和漢朗詠集の中の「暁梁王」などがその例である。岑參(しんじん 七一五−七七〇)の詩も兎園を題材にしているが、かつての栄花が消え果てたあとの廃墟を歌っているのが特徴的で、日本的心性になじむように思われる。

    山房春事
  梁園日暮乱飛鴉  梁園 日暮 乱飛の鴉
  極目蕭條三両家  極目 蕭條たり 三両家
  庭樹不知人去尽  庭樹は知らず 人去り尽くすを、
  春来還発旧時花  春来 還【ま】た発【ひら】く旧時の花。


一穂の若き日のロマンチシズムがきらきらとしている。

  吉田一穂 「後園」(『海の聖母』1926)

明るく壊れがちな水盤の水の琶音【アルペヂオ】
日時計【サンダイアル】の蜥蜴よ)

光彩を紡むぐ金盞花や向日葵の刻。
洎芙藍【さふらん】が、その黄金を浪費する時。

微風に展く頁を押へて、指そめる翠【みどり】の……
御身、額の白く、香ぐはしの病めるさ。

露風のこの詩も同様に若書きで、メランコリーの愛らしいことよ。

  三木露風 「去りゆく五月の詩」(『廃園』1909)
われは見る。
廃園の奥、
折ふしの音なき花の散りかひ。
風のあゆみ、
静かなる午後の光に、
去りゆく優しき五月のうしろかげを。

空の色やはらかに青みわたり
夢深き樹には啼〔な〕く、空〔むな〕しき鳥。

あゝいま、園〔その〕のうち
「追憶」〔おもひで〕は頭〔かうべ〕を垂れ、
かくてまたひそやかに涙すれども
かの「時」こそは
哀しきにほひのあとを過ぎて
甘きこころをゆすりゆすり
はやもわが楽しき住家〔すみか〕の
屋〔をく〕を出〔い〕でゆく。

去りてゆく五月。
われは見る、汝〔いまし〕のうしろかげを。
地を匍〔は〕へるちひさき虫のひかり。
うち群〔む〕るゝ蜜蜂のものうき唄
その光り、その唄の黄金色〔こがねいろ〕なし
日に咽〔むせ〕び夢みるなか……
あゝ、そが中に、去りゆく
美しき五月よ。

またもわが廃園の奥、
苔古〔ふ〕れる池水〔いけみず〕の上、
その上に散り落つる鬱紺〔うこん〕の花、
わびしげに鬱紺の花、沈黙の層をつくり
日にうかびたゞよふほとり――

色青くきらめける蜻蛉〔せいれい〕ひとつ、
その瞳、ひたとたゞひたと瞻視〔みつ〕む。

ああ去りゆく五月よ、
われは見る汝のうしろかげを。
今ははや色青き蜻蛉の瞳。
鬱紺の花。
「時」はゆく、真昼の水辺〔すゐへん〕よりして――
(1909/7)

こういう西洋的イメージのロマンティックな詩に対して、朔太郎は、日本の土着風の装いを持ってくる。どことをどう読んでも異能の人と感じられる。

萩原朔太郎「夢にみる空家の庭の秘密」(『青猫』1923)

その空家の庭に生えこむものは松の木の類
びはの木 桃の木 まきの木 さざんか さくらの類
さかんな樹木 あたりにひろがる樹木の枝
またそのむらがる枝の葉かげに ぞくぞくと繁茂するところの植物
およそ しだ わらび ぜんまい もうせんごけの類
地べたいちめんに重なりあつて這ひまはる
それら青いものの生命(いのち)
それら青いもののさかんな生活
その空家の庭はいつも植物の日影になつて薄暗い
ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ
夜も晝もさよさよと悲しくひくくながれる
水の音
またじめじめとした垣根のあたり
なめくぢ へび かへる とかげ類のぬたぬたとした氣味わるいすがたをみる。
さうしてこの幽邃【いうすゐ】な世界のうへに
夜は青じろい月の光がてらしてゐる
月の光は前栽の植込からしつとりとながれこむ。
あはれにしめやかな この深夜のふけてゆく思ひに心をかたむけ
わたしの心は垣根にもたれて横笛を吹きすさぶ
ああ このいろいろのもののかくされた秘密の生活
かぎりなく美しい影と 不思議なすがたの重なりあふところの世界
月光の中にうかびいづる羊歯 わらび 松の木の枝
なめくぢ へび とかげ類の無気味な生活
ああ わたしの夢によくみる このひと住まぬ空家の庭の秘密と
いつもその謎のとけやらぬおもむき深き幽邃のなつかしさよ。

庭をめぐって

ツイッターにも書いたが、ここにも書いておく。

http://isidora.sakura.ne.jp/mizu/garden.pdf

拙稿に関連して、大阪の国際児童文学館の土居さんより、いくつか庭関連の児童文学を思い出したとメールを頂いた。土居さんは、おそらく日本で最も児童文学を多数読んでおられる方で(新刊の9割には目を通すとか)、教わることが多い。

『ドールの庭』(パウル・ビーヘル著 野坂悦子訳 早川書房
イスカンダルと伝説の庭園』(ジョアン・マヌエル・ジズベルト作 ウルディアレス絵 宇野和美訳 徳間書店
絵本『ハンナのひみつの庭』(アネミー&マルフリート・ヘイマンス文絵 野坂悦子訳 岩波書店

 ビーヘルはたいへんに優れたオランダの作家で、私も好きなのだが、この作品は完全に失念していた。隠された庭、癒やしの庭というモチーフを用いており、変身のモチーフもあることから、ライルの『花になった子どもたち』はあるいは影響を受けたのかもしれない。
 『イスカンダルと伝説の庭園』は擬似歴史もの。作庭をテーマとしている。
 『ハンナのひみつの庭』は知らなかったので、後に確認。『ひみつの花園』の系譜を継ぐ作品であり、鎖された庭をモチーフに、家族の再生を描いている。

『日本幻想文学事典』をめぐる騒動について

 昨年十二月に筑摩書房よりちくま文庫として刊行された東雅夫著『日本幻想文学事典』についてお話しします。
 この著作は、東単独の著作として刊行され、ブログ等でも「石堂藍執筆部分を排して単著とした」と言明されておりましたが、作家事典部分には石堂藍執筆分が含まれております。私が調べたところでは、およそ一割近くが石堂執筆分でした。部分的に変更されている場合もあります。
 私は本書刊行後、『日本幻想作家事典』をもとにした著作が世に出回っていることを人に知らされ、書店で手にとって初めてこのような事実を知りました。
 私は、これを著作権の侵害と認め、筑摩書房及び東雅夫に抗議致しました。
 筑摩書房は、手続き上の不備(原著『日本幻想作家事典』が執筆区分のない共著であるにもかかわらず、共著者の了承を得ることなしに、二次的著作を刊行したこと)を認め、当方が求めた謝罪公告、慰謝料の支払いに応じました。
 東雅夫は一貫して、石堂の執筆分を故意に用いたのではなく、たまたま混入した部分があるだけのことと主張しておりますが、当方の出した諸々の条件をある程度呑み、慰謝料の支払いに応じております。
 詳細はホームページに記載しております。
http://isidora.sakura.ne.jp/isi/ran68.html
http://isidora.sakura.ne.jp/isi/ran69.html

 法的な手続きを踏んで、ことを処理したのには理由があります。 私が何年もかけて準備し、精魂を傾けて作った『日本幻想作家事典』に関する問題であるだけに、ただ泣き寝入りするということができなかったということ。東のこの著作を認めてしまうと、私が執筆したものが、東が執筆したものだということになってしまうということ。これは剽窃とは異なる事態であり、私には到底容認できるものではなかったといこと。
 そしてまた、このようなことを、二十年にわたって『幻想文学』を共に作ってきた東がしたということに、私はたいへん大きな衝撃を受け、他者の介在なしには、到底冷静に対処できなかったということ。
 
 そしてこの事件に対する東の対応は、私が東に持っていた好意、あるいは友情のすべてを根こそぎにするに充分なものでした。
 私はまだ、この事件にとらわれており、いろいろと考え出すと、はらわたが煮えくりかえりそうな気持ちになります。
 とはいえ、こうした過去のことは忘れ去り、前へと進まねばなりません。

 私は東雅夫との交わりはいっさい断ちたいと考えております。
 東と出会いそうな集まり等、あるいは東に関わる企画等への参画はすべてご遠慮させていただくことになるでしょう。そんなものがあるとすれば、ですが。

 また、再発防止という観点から、私との共著物の二次利用をしない、また『幻想文学』について私の了承を得ることなしに執筆・発言しない、という和解事項を東雅夫は了承しております。
 そのため『幻想文学』について、過去のことを記録しておくのは、私一人の務めとなりました。
 このブログで細々と書いていこうと考えています。

 『幻想文学』終刊以来、十一年となります。
 この間、良い友人に恵まれ、さまざまなユニークな仕事に携わることができました。
 今後も、過去にとらわれず、私にしかできない執筆活動を展開して参る所存です。
 ご支援いただければ幸いです。

『映画の生体解剖』

 高橋洋稲生平太郎対談集『映画の生体解剖』(洋泉社)編集しました。ただいま発売中です。

映画の生体解剖~恐怖と恍惚のシネマガイド~

映画の生体解剖~恐怖と恍惚のシネマガイド~

『映画の生体解剖』索引データをアップ。 http://isidora.sakura.ne.jp/ino/vivisection.html エクセル。原題一覧つき。また、紙幅の都合でできなかった注の中の作品やスペックの人名、マンガや小説作品なども網羅。本の索引とは違う方式です。
 私が一から作っていて、本にある索引との突き合わせなどはしていないため、脱落などもあるでしょうが、ご了承ください。原題一覧(一部に小説作品が混入しているがご寛恕)も付けたので、このデータは結構便利だと思います。『生体解剖』お持ちの方は、是非ダウンロードしてください。


〜『生体解剖』こぼれ話〜
 私の仕事は、出口が見えなくなってしまった対談を本の形に仕上げるというものでした。つまり、途中から参加です。
 横山さんが、なかなか進展しないとおっしゃるので、参加させろとしつこく要請し、その希望がかなって、編集に加わることができました。
 これまでの対談の起こしをチェックして、再構成。「読み物」としての体裁を整えて、たたき台を作り、さらに全体の構成を提案して、不足分について追加の対談を行うことを提言。たたき台を読んでもらった感想を聞いて作った最初の本格的な構成案がこれ。

a. プロローグ……映像体験
b. 映画の欲望を知れ!
i. 手術台
ii. 放電・光
iii. 沼・水
iv. 悪あるいは恐怖の源
c. 見るべきところはここだ!
i. 恍惚と恐怖
ii. 超自然の感覚
iii. 通俗と神話
iv. パラノイア
d. 映画の歴史を書き換えろ!
i. 手法
ii. 時間
iii. 詐欺
iv. 分身

 dの部分は対談としては存在せず、メールのやりとりや、内容の中から浮かび上がってきたもの。「時間」については洋泉社の田野辺さんから必ず入れるように、と言われたもの。
 d-1 が「映画がリアルを支配する」へ、「詐欺」というのは霊媒関連の話のことで、むしろ異界につながる話に展開し、「分身」は「姉妹」ですね。
 分身妄想というのは、高橋さんが非常に強くとらわれているモチーフのようで、「恐怖」を感じるという映画はそのモチーフ。高橋さんのこだわりを通してこれを敷衍してみると、「いるはずのないものがいる」ということになるように思われます。「自分の分身を見ると近いうちに死ぬ」という俗信がありますが、そういうものとも通じるような。
 どの章から読んでもいいような感じに、つまり拾い読みが可能なように構成した。とはいえ、「前にも言及した〜〜は……」みたいな言葉が出ないわけにはいかなかったけれども。
 このたたき台に、高橋さんが訂正を加えて、現行の形に。高橋さんはたいへんに聡明な方で、さまざまなことを適確に掴みます。さらに、謙虚。まったく威張らない人で、しかも自分の嗜好や影響を受けたものなどをものすごく素直に出して平気な人。要するに見栄を張らない。たいへんに仕事がしやすかったです。
 高橋さんは、まったくの同世代というか、同期の人。高校大学で同級生だった人たちとは、会えば同級生の間柄なのだけど、そうでなかった同年齢の人とは、そうはいかない。けれども、高橋さんはそのように飾らない人なので、気分は同級生、という感じ。実際、大学で知り合っていてもおかしくなかった。幻想文学会でもホラー映画はよく観てたし、映画マニアの人もいて、菊地秀行さんともそちらでつながっていたのだから。作る人と観て評論する人とは違うかも知れないけど……。

 ところで、本を作りながら、高橋さんは何かというとクローネンバーグに言及するので、クローネンバーグが好きなんだな、と思っていたのだけれど、5/2に行われたイベントで、別に好きじゃないんだけど云々と言っていて、びっくり。別に好きじゃなかったのか! でも気になるわけね(笑)。