宿屋めぐり

 野間文芸賞を受賞した話題作だが、読むのが遅くなった。
 「主」の代参で権現様に名刀を奉納に行く途中で、不気味な生物の中から「贋の世界」(この世に似て非なる世界)に入り込んだ(と思った)彦名が、その世界で行き当たりばったりにわがまま勝手に生きていく姿を描く。彦名は無知な愚か者ではなく、非常に自省的なのだが、内省しつつ自分をごまかし、好きなように生きていく。実に無惨な生を描いている。
 町田康の面白さは、独特の文体で内省的人間をうだうだと描くところに最も求められると思うが、内省的であるということは現代の知識人には必須の要件なので、文壇的受けがいいのではないかと思う。町田の戯画的自画像に共感する文芸関係者や読書人が多いということだ。
 『宿屋めぐり』では、そのような内省的人間の、しかも、どうやら「主」に従って道を求めているらしい人間の(その意味で特に印象的なのは、石ヌに殺されようとしている主人公が、その手帖の予定を見て、普通の人間だと思うところである)、どうしようもないダメさを描いた長篇である。言い換えれば、真っ当に見える真面目な知識人のダメさ、町田自身を含む「我々」のダメさを描いている。下手をすれば恐ろしく不快な小説になるのだが、町田の文体故か、物語の展開の妙か、ともかくもあっという間に読み終えられる小説となっている。いや、これはやはり常に「主」の視点があることが効いているのだろう。ダメなごまかし野郎が、「主」が外から見ている、という感覚を捨てきれないという点が、なんとか救いになっているのだろう。もちろん文体が良くて、物語としても面白いということは大前提としてあるのだろうが。

 町田の描くやたらに内省的な人物像は、農村共同体から外れたことで生じた「近代的自我」のような甘ったるしいものを、さらに客観視するところから生まれており、とてもポストモダン的で(現代的で)、多少とも物を考える人の共感を呼ぶ。しかし『宿屋めぐり』は、そのような人間のウソ(脳の思考とは別に人生に流されてしまう現実)を描いているのであり、町田の本を喜ぶような、例えば私のような読書人をも撃つ仕組みになっている。書評では求道の書のように書いたものもあったが、ネット内のAmazonやブログの感想などの方がよほど正鵠を得ており、これは自分のことだと感想をもらす人が多い。そのような意味で笑うに笑えない物語である。