インタビューの話

1日にパラボリカで、『幻想文学講義録』の出版記念イベントとして、東雅夫と私のトーク・イベントが行われた。
私としては、インタビューを受けて下さった方のエピソードを中心にした話をしたかったのだが、東がやたら古い話を持ち出したり、インタビューの質そのものの話になってしまったりと、私の考えていた展開とは異なったため、用意していった話はあまりできなかったので、ここに若干を記したいと思う。
 作家の方の肉声も聞いて頂きたかったのが、あまりよく聞こえなかったようで、残念だった。

 『幻想文学』は大学生の文芸サークルの同人誌の延長として始まった。いろいろな外部の協力を得ながら東と私とで作り上げていった雑誌だ。両人共に、雑誌編集の経験を積んだわけではなく、今風に言えば、学生起業と変わりがなかった。何の経験も無く、出版界の慣行も知らず、わずかな知識から、雑詩を作ったのだ。あらゆる点で、体当たりもいいところ。
インタビューは、偉い先生方は、書いてはくれなくても、インタビューなら応じてくれるかもしれない、という程度の感触で始まった。コネもなければなにもなく、東が手紙を丁寧に書き、後に電話するという形で依頼するが、電話の前に、お断りのハガキをいただくこともあった。多くの場合、快く応じて下さるので、私たちは調子に乗って、インタビューしまくった。東と私でインタビューしに行くが、東一人ということも多く、後期になると、私一人ということも多かった。今回の講義録では、私のしたインタビューは多く省かれているが、南條さん、野谷文昭先生などは私によるものだ。
 仕事始めと言えるのが、澁澤龍彦さんのインタビューで、当時の我々にとって澁澤さんは神様のごとき存在なので、あまりはかばかしいインタビューではなかったようである。まとめ方も稚拙で、校正を読みながら最も手を入れたくなったのがこのインタビューであった。
 それに較べると、荒俣さんのインタビューはずっと気楽で、荒俣さんご自身飾らない方で、かつ、よくお話しになる方なので、結構長い時間話をうかがった。私は憧れの人の実物に接し、いささかのショックを受けた……。
 二号の日野啓三さんも、お会いするまでは怖い方なのでは……と思っていたが、まったくそんなことはなく、幻想文学というジャンルそのものにも深い理解を示して下さったので、感激した。日野さんはその後も優れた幻想文学の書き手であり続けながらも、文壇的にも重要な地位を占めていくようになる、ありがたい存在であった。日野さんのインタビューが、成功したという感じだったので、三号で純文学を取り上げようという話になったのである。
 二号では、矢野峰人先生という、これまた雲上の方にお話をうかがっている。しかしこれは聞き手が井村君江先生なので、『講義録』には載せられなかった。
 三号の時は、山尾悠子さんにインタビューできるというので、たいへんな騒ぎであった。京都まで出向いたのだが、先日『キローガ短編集集成』という訳書を出した甕(もたい)君が、自腹を切ってでも写真を撮りに行く!と叫び、結婚前の愛らしい山尾さんを撮りまくってきたのであった。従って私は同行していない……。なお、甕君はカメラが趣味で、インタビューの時の写真の撮り方などをいろいろと私に指導してくれたのであるが、なかなかそれを活かせず、写真はしばしば非常にまずかった。ごめんなさい。
 三号では村上春樹さんにもインタビューしているが、今回は掲載を断られてしまったので、『講義録』には載っていない。渋谷の喫茶店に、つっかけを履いて現れた若き日の村上さんはざっくばらんもいいところで、今後、この人は良い幻想小説の書き手になって私たちを喜ばせてくれるだろう、という感じのインタビューはできたけれども、やがてノーベル文学賞候補になるだろう、と思わせるようなところはなかった。まあ、当時は誰もそんなことを考えた人はいなかったと思われ、インタビューの話題である『羊をめぐる冒険』も毀誉褒貶相半ばという感じだったと思う。しかし、インタビューの後、まもなく『羊』で野間文芸新人賞を獲得し、村上さんは、次第に幻想文学にとってだけではなく、文芸界全体にとって、特別な作家になってゆくのである。
 特別な作家と言えば、五号での古井由吉さんもそうだ。内向の世代という半分貶し言葉のようなくくりの中に入れられながら、独自の道を歩み、日本語文芸の質を高める作品を多数執筆している。泉鏡花同様、翻訳ではそのすごさがなかなか伝わらないだろうと思われるので、その点が残念だ。インタビュー時の印象は、誠実、真面目、勉強家……というようなものだった。ドイツ文学と日本古典の並ぶ書棚が印象深かった。
 伝奇ロマン特集では、山田風太郎五木寛之の両大御所にインタビューできた。山田さんの話は1日にしたので割愛、五木さんも気取ったところも偉ぶったところもまったくない方だった。おずおずと写真を撮っていると、もっとガンガン撮らないと良いのが撮れないからドンドン撮れと叱咤して下さった。伝奇ロマンの話題なので、非常民の話になったわけなのだけれど、最近連載していらした「親鸞」でも、この四半世紀前のインタビューと同じ、非常民に対する熱い視線が感じられ、感慨深いものがあった。
 評論家の方々も、インタビューしたのは一流の、功績ある方々ばかりだ。私たちは、まったく無名の、大学を出たばかりの、はたちそこそこの若造である。だからといって小馬鹿にするようなことはなく、ピントの外れた質問にも、あるいはちょっと大雑破で答えにくい質問にも真摯に答えて下さった。もしかすると、私たちは先生方のお子さん方とそんなに変わらない年頃で、何か子どもを可愛いと思うように、私たちのこと可愛いもんだと思って下さったのかもしれない。私の子どもたちが、ちょうど、『幻想文学』の初期の頃の年ごろとなり、私も50歳を越えたので、そんな風に考えるようになった。
 7号の児童文学特集では、子供時代から愛読してきた別役実さんにインタビューできたのがとても嬉しかった。東は横須賀つながりで佐藤さとるさんのファンだったので、感激したらしい。この号は、立原えりかさん、天沢退二郎さん、三木卓さんなど、大好きな作品の作家たちに盛大にインタビューでき、非常に幸せな号であった(笑)。
 13号の頃に、長男を産んだため、インタビューに一緒に行くことがなかなか難しくなり、私は家でテープ起こしだけするということが多くなった。そのため、いろいろな方にお会いできないまま終わり、たいへんに残念だった。
 インタビューの後、長いお付き合いをしていただくことになる前川道介先生のエピソードを一つ。インタビュー中に「いや、あの辺は本当に奇々怪々ですよ。フッフッフッ。」とあるところだが、東は、最初の原稿で「フォッフォッフォッ」と書いてきた。で、そのまま活字にしたところ、校正で、前川先生から、「もっと年を取ったらフォッフォッフォッと笑えるかも知れませんが、今はまだちょっと……「フッフッフッ」ぐらいにしてください」という指示をいただいた。お恥ずかしい……いや、残念だったと言うべきか。
 余談だが、『幻想文学』では前川先生にたくさんドイツ語の怪奇文学を翻訳をしていただいたのだが、それを含めて前川先生の短編の訳業の大方を『独逸怪奇短編小説集成』としてまとめて国書刊行会より刊行した。私も製作に関わった。この本を、国書刊行会のベスト3アンケートに、皆川博子さんか選んで下さったのが、とても嬉しかった。
 さて、いきなり41号まで飛ぶ。小池真理子さんのことを会場でも少しお話ししたが、小池さんにお会いして驚いたのは、ほんまもんの美人だったことである。文芸界では「美人作家」とか「イケメン編集者」とか言っても実体を伴わないことがしばしばあるが、小池さんは、噂通り、まず10歳は軽く若く見える美人であった。才色兼備という人は、うらやましいことに、たまに実在する。山尾悠子さんとかね……。
 多田智満子さんもお亡くなりになる前にインタビューできて幸せだった。学生時代からの憧れの人である。やはり知性を感じさせる落ち着きのある、素敵な方だった。ああいう風に年は取れそうもないな、と思ったことであった。