売られる少女

昨日、杉井ギサブロー監督のアニメ「グスコーブドリの伝記」を観に行った。ますむらひろしのキャラクターで、「銀河鉄道の夜」の再現というか、似た感触がある。脚色は、「ネネム」を取り入れて、悪くない感じになっている。
「ブドリ」では、ネリは牧場に捨てられて平凡な農夫となるが、「ネネム」のマミミは、興業のスターである。アニメは「ネネム」版を取る。飢饉の年に、いずこかへ連れ去られた少女の行く末として、マミミの方が説得力があるし、物語としても納得できる展開となっている。
 ネネムの化け物世界は、ネリが連れ去られた異界へと変換され、異界から人間界へ出没する侵犯の犯罪は、ネリを連れ去る男が裁判長となって裁いていて、妹を求めて異界に入り込むブドリがむしろその罪に問われる。この異界の表現もすばらしく、アニメーションとしては一番の見所と言える。賢治の妹への思いも、この箇所でよく表現されている。
 ラストは原作の方がわかりやすくて、良いのではないかという気もするが、全体の統一感という点から言えば、アニメ版も悪くない。
 私の直ぐ後ろで、母親と見に来ていた小学生の男の子が、あれは何? もう冬は終わったの?といろいろな問いを母親に重ねながら観ていたが、ラストシーンで泣いていた。何が起きたか、小さな子にも分かれば、それでよいということも言えるだろう。
 ますむらキャラにすることに抵抗のある人も多いだろう。ますむらキャラと脚本によって、大農夫などは、ずいぶんと印象が異なってしまう。大農夫がヒデヨシとかぶれば、ブドリのここでの生活が辛いものにはまったく見えなくなる。こうしたことは、しかし原作の脚色にはつきものであって、猫キャラに限ることではない。結局、賢治世界は、人間のキャラを持ってくるとより一層ヤバイ感じになる(賢治ファンからの拒否感が増大する)ので、こんな道を選んでしまうということがあるのではないか。
 猫キャラでよくないのは、飢饉なのにまるまるしていることで、両親共に死にそうな感じがない。やつれた猫を描いてもよかったのではないだろうか。