二葉亭四迷『浮雲』

伊藤整の『小説の認識』に関連して、二葉亭四迷の『浮雲』を再読。

主人公内海文三は没落士族の子弟で、それなりの学問を積み官吏となったが、罷免される。彼の潔癖とプライドが、役所において理不尽な上司に合わせてうまく立ち回るということを許さなかったためである。一方、同輩の本田昇はワールドワイズ・マンであり、出世も見込めそうである。文三は叔父のところに寄宿していた関係で、従妹のお勢と幼なじみで、恋仲風ではあったが、罷免後、お勢は本田のアタックに応ずるようになっていく。文三は本田にライバル意識を抱いたり、お勢の浮薄に悩んだりしながら、我を殺して復職するのにも女を愛するのにも煮え切らないのだが……。

 外面的にも心理的にも細かい描写の続く小説で、日本近代小説の幕開けを告げたとされる作品である。130年前の小説だが、現代に読んでも、風俗的な面ではほとんど変わらないし、文三の抱える苦悩も、敷衍すれば古びてはいない。しかし文学としてはもうおもしろく読めるという段階を超えてしまい、賞味期限を過ぎてしまったろう。例えば、今の若者に、歴史的興味からなら勧められても、文学的感動という面からはほとんど勧められる作品ではない。

浮雲』の解説(十川信介)には、文学と学問の無力をめぐる思想文学である、という見解が示されている。
伊藤整的に読めば、エゴを犠牲にして組織の一員(現代には社畜というすごい言葉もある)になりきるか、倫理を通して自由に生き(清貧に甘んじ)、愛する女性にも倫理への自覚を持たせるように努力するかといった、生の倫理を思考した作品ということになろう。
お勢は美人だが、倫理とはほど遠く、主人公の潔癖を愛しているわけではなく、学問があって出世しそうなのに惚れただけなのであり、もちろん倫理に目覚めさせられるわけがない。彼女を得ようとすることをあきらめても、さらにその先にも彼女の堕落を見つめなければいけないかもしれないという恐怖がある。象徴的にとらえれば、功利主義きわまるお勢の母親お政は日本の大衆社会であり、お勢は日本の市民社会である。その末路を構想メモで二葉亭は悲劇的なものとしている。
伊藤整は、文芸評論において、人間には様々な点で自由がないということを書き立てていて、資本主義社会に生きるということは、弱者として餌食となるか、強者として君臨するかだが、誰も餌食にはなりたくないものの、強者たることも倫理的に耐えられないと述べる。(ちなみに、共産主義は知識人や批判を弾圧する奴隷の安定だと喝破している。)これが近代の知識人の抱えるアポリアであり、その対処法として、日本では諦念(エゴを去る)へ向かうことが多い。だが、これじゃまずい、というのが伊藤の認識だ。私は、諦念も含めて、内外共に、宗教(自分を絶対的他者にゆだねる)か絶望(笑いと狂気)かへと集約できるのではないかと思う。それはともかく、逃げ道がないわけで、そのことに対する問題意識を二葉亭は見せて、その寄る辺なさを「浮雲」と言ったのだろうと解釈できる。
これはあくまでも「小説の認識」に見られる伊藤正義援用して読んでみたというだけのものだ。ファンタジーの立場からは、この作品について言うべきことはあまりない。なお、ウィキペディアによれば、「オブローモフ」をモデルにしたそうで、もしそれが本当なら、あの作品からこうなってしまうのでは、全然ぬるいとしか言いようがない。むしろ日本の私小説は「オブローモフ」を再現して凄絶であるといえるだろう。