『小説の方法』『小説の認識』

伊藤整の評論集。それぞれ1948年、1955年に刊行されており、収録作は47年から53年にかけて書かれたものである。
この評論集は、雑誌の求めなどに応じて折々に書かれたもの故、重複が多く、また、伊藤整自身が悩みながら書き進めていることがあからさまな書き方であるため、それほど読みやすいものではないのだが、たいへんにおもしろく読める。ただ、私自身が、戦後の文芸評論そのものに詳しくないため、過剰に評価しているところはあるかもしれない。

本書のテーマは、小説という芸術の本質とは何か、というものである。それに付随して、小説家は何を求めて小説を書いてきたのか、読者はなぜ、またどこに感動するのか、日本の近代小説はどのような道を辿ってきたのか、日本の小説の問題点はどこにあるのか、現代の小説の可能性とは何か、小説家はいかにいくべきか……といったことを論じている。背後には、自分はいかにして小説が書けるのか、という創作家としての大問題が控えている。若いときにジェイムズ・ジョイスに触れ、世界文学に親しんだ理知の人が、日本の文壇の中で悩むのは当然でもあったろう。

 それぞれのエッセーでは、世界的に見て一奇観を成している日本的私小説の意味を分析し、人間の文明の歴史においては組織による人間の疎外が常態であることを見据え、芸術家の倫理と芸術家としての在り方を考察し、日本的な、論理性を欠いた社会のありようとそれに対して小説家の取るべき道を模索する、といった具合である。キリスト教的ヨーロッパや、農奴制のロシアなどとの対比がしばしばなされる。伊藤は、論理的に解けるヨーロッパ的思考や文学が、というよりも、それを許容する文学風土がうらやましかったのだろう。それも誤解に過ぎないという気がしないでもないが、日本と比べればまだしも、というところはあるかもしれない。

なお、『小説の認識』は「初版二万三千部しか刷られていない」(伊藤整)そうである。伊藤整は1950年、チャタレイ裁判によって時の人となり、売れっ子作家となったのである。「(内容を考えれば)二万部でも多いかもしれない」と伊藤は言っているようだが、それにしても、文学の本質を考究するという一般性に欠けるこんな評論が二万部も売れるということがすごい。伊藤の評論の中には、永井荷風についてのコメントもあって、「スキャンダルを小出しにしながら、文士としての名声を保ち続けてそれで生活を成立させつつ、非常に孤独に生きた人」というような評価なのだが、スキャンダルによって売れる、という事態は、伊藤も変わらないではないかと思わせられる現象である。その後もエッセーや映画にもなった心理小説によってベストセラー作家となった伊藤だが、現在、どれほどの読者がいるのかはわからない。