批評・評論

高原英理の『アルケミックな記憶』に、批評に関する文章があって、なかなかおもしろい。

意識ある人間であるかぎり批評を一切しない人はあり得ない。

批評は意識の本質的な働きであり、(中略)二次創作と決めることはできない。

 批評の終わりは人類文化の終焉だ、とまで言っている。価値判断は常に批評的なので、野放図に受け入れられる人間は解脱した人間だけだと私も思う。批評はたいていの人が、おもわずやってしまうことなのだ。

 で、そのあとに文芸批評の話が出て、自分の言いたいことのために作品を使い捨てるという話になっていく。私は文芸における批評と評論に区別をつけていて、批評は作品を読み込んでその評価を下すことであり、評論は作品そのものではなくて、部分をつまんで、自分の言いたいことを言うものだと思っている。
批評についてはかつてこんなことも書いた。
http://isidora.sakura.ne.jp/isi/ran40.html
私が目指すのは批評であって、文芸評論ではない。
『アルケミックな記憶』には作家が喜ぶ批評の話があるが、私はも自分がついその方向に向きそうになる(それが簡単だから)のを常々戒めている。
非常に冷静な作家なら批評を読めるだろうが、そういう人は少ない。もう書いてしまった(手の入れようがない)作品についてあれこれ言うな、と言われたことがあり、至言ではあるものの、冷静ではない発言で、たいていがそういうものである。
しかし、批評は、作者や読者のために書いている。喜ばせるためではない。批評を読んだ人が、その作品の理解を深めるために書いているのである。自分ではよく書けたと思っても、読者からは「言われなくたってわってるよ」と言われることもあろう。作家からは「こんなことを自分は考えていたのか、知らなかった」と言われることもあろう。それは作家からすれば否定の言葉だろうが、私には褒め言葉だ。批評の大事な役割とはそういうものなのだと思っている。
『アルケミックな記憶』の文芸誌の中での評論の役割に言及した箇所もおもしろい。キイワードが自由。これも幾多の連想を誘うが、まとまりそうもないので、ここで擱筆