高原英理のこと

アルケミックな記憶 (TH SERIES ADVANCED)

アルケミックな記憶 (TH SERIES ADVANCED)


高原英理が最新の著書を送ってくれた。
過去の記憶をさまざまに引き出してきた回顧エッセー集だったので、私も昔のことをちょっと思い出してみた。

高原英理と最初に会ったのは、『幻想文学』を始めて間もない頃で、現在は古書肆マルドロール(http://maldoror.web.fc2.com/)を経営する小山さんが紹介してくれた。
当時、小山さんは詩の本の店ぽえむ・ぱろうるの店長をしていて、私はそこであまり役に立たないアルバイトをやっていた。高原英理はぽえむ・ぱろうるの常連客だったのだ。
ぽえむ・ぱろうるについてもちょっと説明しておこう。それは西武百貨店の中にある小さな専門書店で、詩や澁澤・種村系の幻想文学などを取り扱う、きわめて偏向的な書店だった。その頃、西武百貨店は、カルチャーの先端のような場所で、アート関連の催しには、目を見張るものがあった。池袋店の書籍部も非常に充実していて、アングラな同人誌のようなものも数多く取り扱っていた。ぱろうるもそのような、文化の片隅を占めるテナントだったのだ。西武の社長が詩人の辻井喬だった縁だと思う。ぱろうるは、ほかにも池袋PARCO渋谷PARCOの中にもあって、高校の頃の私は、もっぱら池袋のぱるこ・ぱろうるで本を読んでいた(高い本ばかりなので買わずに立ち読みするのだ)。
さて、このぱろうるでは、素敵なデザインのカバーを用いていたが、小山さんの情報に拠れば、高原英理は、このカバーで本をきちんと包むことをいつも求めるのだそうで、相当の本好きであるらしかった。しかも服装はいつも黒で決めているとか。で、小山さんと三人で食事をしたと思うのだが、私はこのときのことがまったく記憶にない。
後に、高原英理が言うことには、このときの私は『はてしない物語』のすばらしさを力説したのだという。そう言われても、何も思い出せない。忘れていて幸いである。会ったのはこの一度きりだ。
それから数年後、『アルケミックな記憶』にもあるように、高原英理は、『幻想文学』が主宰した幻想文学新人賞の第一回受賞者となった。私は、この受賞者が、小山さんの紹介で一度会ったことのある人だとは、気づかなかった。まったくそこつである。しかし、私は今でも、あの時の原稿の筆跡を思い出すことが出来る。記憶とは不思議なものだ。
幻想文学新人賞とは、澁澤・中井の好意にすがった賞で、応募する人も、特典がこの両名に読んでもらえるだけという、とんでもない賞だったのだが、それでも、高原英理をこの賞でデビューさせたことについて、私はずっと負い目を感じていた。当時、私も高原英理も25歳という若さなのだが、そんな若い青年の人生を狂わせたのではないかと思わずにいられなかったのである。この賞には、メジャーなところへとつながるものが何一つない。大手の出版社なら、さまざまな書く機会や単行本への足がかりを与えられるのに、そういったものは一切ない。しかし、こと幻想文学という分野で、澁澤・中井が認めたという自負だけは与える。これでは不健全である。『幻想文学』ではなるべく執筆の機会を与えるべく、小説誌も出してみたし(2号雑誌となった)、特集に沿う作品を依頼もした。しかし、これだけではダメなのだということもよくわかっていたので、負い目を感じたのである。
『アルケミックな記憶』にも言及のある短編「水漬く屍、草生す屍」は、『小説幻妖弐号』(1986)に掲載された、メタ的な趣向のある作品だが、当時としてはここまでの完成度をもつ作品はなかなか存在しなかった。大した作品だと私は評価したが、『幻想文学』の発行するような小説誌に載ったのでは、一般的な文壇(?)から評価されるようなことには決してならない。私は、そうしたこと、こんなに優れた作品が評価されないことに、私たちと高原英理とに関わりがあることに、責任のようなものを感じたのだ。
幻想文学新人賞の入選者の中には、牧野修芦辺拓がいる。前者はSF、後者はミステリに縁があって、その方面で改めてデビューした。一方、高原英理は、純文学方面に向かい、小説では文芸誌に受け入れてもらえず、評論家として再デビューすることになった。嬉しいような悲しいような。そのような経緯もこのエッセー集には書かれていて、私は当時のこともいろいろと思い出すのだけれども、今は書かないでおこう。
ともかくも、このように高原英理の本が出続けているのを見るのが嬉しい。以上のような経緯なので、とても特殊な喜びである。同じ年齢だが、ある種、自分の子どもを見守っているかのような喜び。牧野修にもちょっとだけそういうものを感じる。
こんな感覚は誰にも理解されないと思うし、思われる方も迷惑なのだろうが、とりあえず書いてみた。