井上輝夫先生逝去

8月25日先生が亡くなった。
この春、新しい詩集を頂戴していたのに、何の連絡もしないままだった。
後悔することばかりである。

井上先生は慶應義塾大学に長く奉職された。経済学部の教授となり、その後、湘南藤沢キャンパス設立に参加。名前があまり上がることはないけれども、SFC立役者の一人である。当初SFCは先生とその同志たちの理念が活かされた場所だったようだ。SFCについては、とても強い自負を持っておられた。次第に変質したのが哀しいと言うようなことを口にされた。
先生は、若い頃には大学の労働組合で活動したこともあり、SFCのあとにはニューヨークの慶応高校で校長先生をなさったり、大学行政に手腕を発揮された。
慶応を退官後、中部大学に再就職なさって、人文学部長を務められた。停年後は安曇野に居を構え、詩作とエッセーに力を入れる日々であったと思われる。

わたくしは以前にも井上先生のことを恩師としてこのブログに書いているけれども、なぜ早稲田大学の私が井上先生を恩師として慕うのかというと、先生は数年にわたって、早稲田大学の文学部で教鞭を執られたことがあるからだ。今はなき平岡篤頼先生が、文芸専攻の詩の講師として誘ってくださったのだという。私は文芸専攻の学生で、詩が好きだったから、井上先生の講義を当然受けた。
近代詩・現代詩からボードレールまで、詩の授業は広範囲にわたって行われ、詩の実作や添削もあった。詩人・多田智満子を教えてくれたのも井上先生である。
わたくしはだいたい大学の三年生の頃、やはり詩の評論を中心に書いていた男子学生と二人で、講義の後、井上先生とよくお茶を飲んだ。何を話したのだか、もう忘れていることばかりだけれど、詩の話をたくさんたくさんしたのだった。
井上先生は、小柄で、怖いぐらいに眼光鋭く、でも笑うととても人が良さそうになって、本当に優しかったので、おおむね人付き合いの苦手なわたくしでも、図々しく付いていけたのだと思う。
ジョン・レノンが亡くなって、その話題になって、ぼくと同じ年なんだとおっしゃるのを聞いて、あ、20歳上なんだと初めて知ったりした。
わたくしは、学校とか教師とかいうものがずっと嫌いで、若い頃には教師なんてろくでもないなどと言っていたのだけれど、井上先生に邂逅したが為に、そのようなことが言えなくなってしまった。世の中には素晴らしい教師というものがあり得るのだと知ってしまった。ともかくも井上先生は、わたくしにとって、唯一無二の恩師となったのだった。
本当にいろいろとお世話になったのに、わたくしは大学院で挫折してしまい、先生に文学をやめたいみたいな手紙を書いて、それっきりになってしまったのだった。本当に恥ずかしく思っている。

数年前、本当に30年ぶりぐらいにお目にかかる機会を得た。
連絡を取って、安曇野のお宅にお邪魔したのである。先生はわたくしのことを覚えているとおっしゃった。
早稲田での講義は、詩の講義として自分にとって唯一のものだった、と。慶応でも中部でも詩ではなく、語学や別のことを教えておられたのだ。だから、わたくしが先生の詩の弟子と言ってもよいのでしょうか、とお尋ねしたら、いいよ、と言って下さったのだ。もちろんわたくしは詩作はしないけれども、詩人・井上輝夫の弟子として、詩を読み続けていくつもりである。

来年こそは新著を携えて井上先生のお宅にうかがうのだと、考えていた。まったく愚かなことである。二度とお目にかかれないし、お話しすることもできないのだ。本当にさびしくて、哀しくてたまらない。