ああ勘違い

次男が就職活動中なので(くどい)、その周辺をかぎまわっていると、コミュニケーション能力、コミュニケーション能力と非常にうるさい。「コミュニケーション能力」ってなんなんだ、そんなどうでもいいもので、能力を判断されてはたまらない、と思っていた。
本を読んだり、またネットの記事などを読んだり人と意見を交換したりするうちに、いくつかのことが見えてきた。まず、コミュニケーション能力について、企業によって解釈が異なっているということ。もちろんいわゆるセミナーで稼いでいる人たちの間でも意見は異なっていて、いろいろな見方があるということ。
実は、私自身は、コミュニケーション能力というのは、人とそつなく付き合えるというようなことでしかないと考えていた。コミュニケーションとは、要するに意思の疎通であろう。しかし根源的なことを考えれば、コミュニケーションの成立は非常に難しい。情報は二者間で絶対的に変化する。これが真理であると思う。世間一般では、そうした根源的なコミュニケーションの不可能性を考えているわけもないので、コミュニケーションといったって表面的なことしか考えていないはずで、だから、そんなような、周りとなんとなくうまくいやっていけること、なのだと考えていた。
しかしそんな話ではなかった。
「コミュニケーション能力とは、論理的思考で問題を解決する力、折衝する力」……これは横河電機の採用ページにあった言葉なのだが、いくつかの本で、論理的思考ということをコミュニケーション能力の根幹ととらえていた。
つまり、企業が考えるコミュニケーション能力のひとつは、「論理的でまともな会話を成立させる能力」とでもすべきもだったのだ。
そしてこの「論理的な」やりとりの末に、問題を解決したり、折衝を成功させたりするのである。
いや、日本社会でそんな能力が求められているなんて、初めて知ってしまった(笑)。なあなあ、非論理の嵐で、真っ当なことを言っても相手にされない、論理を組み立てて説得しようとすると、わからないと感情的な爆発を受けたりするので、雰囲気でなんとなくそっちのほうにもっていく、阿吽の呼吸でやっていく、といった、なんというか、私からすればボツコミュニケーションである印象が非常に強かった。まあ出版業界が特殊なのかもしれないけど、でも、接待が横行する社会で、論理が求められているとは予想外だった。まあ横河は技術屋さんの集団だし、海外との付き合いが長いからなのかもしれないけど。
むしろこう言い換えればいいのだろう、頭のキレルやつがほしい。ああ、これなら納得できる。もちろん希少な人材である。

連れ合いは、コミュニケーション能力というのは、チームワーキングをするための協調性であり、また自分が仕事のどのような局面にいるかを知らせる「報告・連絡・相談」のことだ、という。また友人は「弁が立つとかそういうことではなくて、他者への配慮ができるか、といったこと」だと。
しかし、こんなことは、能力とはいえないと私は思ってしまった。仕事をする上では当たり前のことであり、一種のビジネスマナーである。それは能力じゃない。もちろん、仕事をしていると、こういうビジネスマナーのなっていない人というのは存在する。そういう人は、だらしなかったりものぐさだったり自己中心的だったり、とにかく、性格の問題なのである。能力とは言いがたいと思う。
だが、やはり企業の中には、このようなことをコミュニケーション能力と捉えているところも多い、というのは、ネット上の記事にも書かれていた。

もうひとつ、セミナー系のあるブログには、こんなことが書かれていた。……コミュニケーション能力とは得た知識を的確にまとめて吐き出す能力であり、「表現力」と言い換えてもよい。それがある人材はどの企業でもほしい。……
えーっ本当ですか? 信じられませんね、そんなものがほしいとは。
私はもちろんそういうことのエキスパートであるが、物書きとして社会的に尊重されないことはなはだしい。いや、そんな愚痴を言っても始まらないが。
結局、これも知識を咀嚼して自分のものにできる頭脳のよさ、それを当意即妙にはきだす回転の速さが求められているのではないかと思うのだが、どうだろうか。