人を見る

次男が就活中である。超氷河期。このような状態は、世代間の不公平感を非常に大きくするだろう。日経などの記事に拠れば、40代50代に対する30代(氷河期世代)は、上は仕事をしないと不満を鬱積させているという。社内でもそうだとすれば、正社員にすらなれなかった者たちの不満は、上への怒りはどれほどだろう。そして、そういう苦労を味わったことのない人々に選別され、ふるい落とされる気分というのは……。
それにしても、どこの企業も求める人材は「スーパーマン」。同世代が偉くなりつつあるので、「よく言うよ」感はぬぐえない。まあ、棒ほど願って針ほど叶う、というところなのか。
自分は、今風に言うと、いわば「学生時代に起業」という分類に入る。私はビジネスパーソンとしてはとうてい「スーパーマン」の部類には入らず(会社を成功させられなかった)、物書きとしても二流だが、周囲からは「仕事が出来る人」と見なされている。自分の基準からすれば、ひどく抜けていてとても有能とは言えない、と思う。
相棒だった東は、たいへんに優れた資質の持ち主だが、仕事が極端に遅く、取りかかるまでも非常に時間がかかり、「有能」のイメージからは遙かに遠い。しかし、彼が才能のある人物なのは確かなことで、余人にはまねの出来ない独創的な仕事をしている。やはり「スーパーマン」であるのは無理なのだろう。
私の周囲には有能な人がたくさんいるが、しかし全方位的な有能さを持つ人はいない。そういう非常に稀な人は、出版業や文学の学問の世界のようなしょぼいところには存在しないに違いない。
また、ビジネスパーソンとして非常に有能な人は、我が父のように生活面か文化面でどこか欠けるところがあるのではないだろうか、という気もする。人間はパーフェクトではいられないものだ。
ところで、つきあいのある編集者がさして多いわけではないが、この職種の人は、ちょっと見、有能そうに見えない人も多い。だいたいは、その仕事と、会って話した時の感じの落差に驚く。編集者というのは、ある意味で特殊な専門家なので、そういう感じになるのだろうか。つまり、あまり有能そうに見えてしまうと、著者に嫌われる、というようなことがある、ということである。
近代、人は視覚を使って多くを判断するようになったが、視覚は人をしばしば欺く。もちろん五感そのものが欺くのだが、目は錯覚しやすい。しかし、その印象は強烈だ。私たちはどれほど視覚にだまされながら、人付き合いをしているのだろうか?