山ガール

今日の東京新聞に紹介が載っている。おぞましい言葉だ。山のファッションを楽しみつつ、低山ハイクなどをもっぱらグループでする20〜40代の裕福な女性のことを指す、という。対語となる山ボーイというのはあまりいそうもないので。女性に特化した現象ということで、こう呼ばれるのか。
女性であることを強調する言葉にはおおむね不愉快な感じがつきまとうが、ガールとは……。ガールという言葉の使われ方にどことなく下品な感じが伴うのはいかんともしがたい。
まあしかし感じない人は感じないのだし、呼び名はどうでもいいこととしよう。この記事の中では、屋久島巡りとか富士登山など、エコ・自然ブームと連動すると書いてあり、うーんと思った。山は自然の一部だが、登山は非常に人工的な遊びで、なおかつ、まったくエコ(地球環境に優しいとかいう意味のそれ)ではない。屋久島などに行くのは、思いっきりアンチ・エコである。富士山も観光登山のために近隣の自然を破壊している。登山というのは、エコじゃないということを自覚して行うべきものだろう。すみません、でも山が好きなんです、ということなのだ。登山とエコを結びつけるなど、とんでもない、いけ図々しい考え方だ。
山の関連の話で言うと、ケータイで救助隊を呼びつけた遭難者や、二次遭難による死者などがしばしば話題に上るせいで、登山という趣味そのものに対して不愉快だと日記に書く人が少なくない。論調は決まっていて、遭難するなら勝手に死ね、他人を巻き込むな、税金(その地域の救助隊など)を使うな、ということである。他人に迷惑をかけることを趣味にしているなんて人格を疑う、というような発言もしばしばあって、想像力の無さをひしひしと感じてしまう。サーフィンやヨットなど海に関わるものも同様の危険があるし、ドライブや車を運転しての国内旅行も、他人を巻き込んだ事故を常に犯す可能性があるのだから他人に迷惑をかける趣味になってしまうだろう。あるいは、電気はこまめに消しましょう、程度の二酸化炭素削減を、一発で帳消しにしてしまう海外旅行の趣味はかまわないのか。当然、国内の二酸化炭素削減問題に関してはそれなりの税金も投入されている。全部同じことなのだが。さらに大きな視野を持てば、「他人に迷惑を掛けない生き方」は人間にはできない。絶対孤独の中で生きることはできないし、また、そんな生き方をしてもつまらない。じんかんに生きるとは人に何らかの迷惑を掛けずにいないということである。そんな単純なことも、他人を非難したい人々は忘れてしまうのだ。
日本アルプスのある長野県や富士山や南アルプスのある山梨県では、行政的には山は観光資源であって、整備されていないと、またケアがきちんとしていないと客が呼べない、という事情があるため、税金を投入している。そういうことにまったく関係のない他県の人たちが「俺らの税金の無駄遣い」などということが不思議でならない。行政側だって、遭難はしてほしくない、二次遭難はごめんである、従って広報活動もする(もちろん税金で)が、登山者がいなくなっては困るのである。もちろん、こんな産業はやめよう、とみんなが考えてそれをなくす、という考えはそれはそれでありだろう。それでも山に登りたい人間は登るのだ。馬鹿は高いところが好き、と昔から決まっている。
なぜ山が好きなのか、というのは、自分でもよくわからないところで、山道に一歩入ると、それだけで幸せだ。レベル的には私の登山は山ガール(げえ)と五十歩百歩だろうが、山に入るのにファッションをメインにいろいろ考えても仕方ない。気持ちよく過ごすためには装備も重要であるが、それを意識しつつ山の中にいるなどという無駄なことはしたくない。山に没入するために、装備を調えるので、その逆ではない。
東京新聞に連載されていた山野井泰史(もちろん日本が世界に誇るクライマーのひとり)の自伝を読んだが、やはりなぜ登りたいのかはわからないようだった。子供時代からこれが天職だとわかったらしく、ただただ登るために生きている。山野井さんは極端な例で、一般の登山が趣味の人とは較べられるわけではないが、山に登るというのは多かれ少なかれそういうようなことなのだと思う。海に潜りたい人もきっと同じだろう。それはまあ、登らない人にはわからないことなのかもしれないけれど。