アニメ作家の死去

 この数日の内に、二人の知られたアニメーション作家が亡くなった。
 一人は今敏で、47歳という若さで癌に冒され、一人は川本喜八郎で、85歳で天寿を全うした。
 あまりにも早い死と、充分な年齢での死と、どちらがニュース価値が高いのかと言えば、もちろん早すぎる死だろう。だから当然今敏の方が話題になる。そして一般には今敏の方がアニメーターとして有名なのだということもよくわかった。ブログで言及される数の圧倒的な多さということだけでなく、川本が「三国志の人形を作った人」として記憶に留まっているからだ。
 「火宅」「道成寺」「死者の書」の川本が死んだ、というブログ記事にはあまりならないわけだ。ブログを書いている年齢層ということもあるだろうし、所詮、こういう方面(セルじゃないアニメ)はマイナーなのだということでもあるが、それにしても、この情報の偏りぶりには愕然とせざるを得ない。
 ところで川本の作品は、人形アニメの技術というところでまず評価されるようなものだろう。つまり美術的評価。一方の今敏は、私にとっては「千年女優」の今敏なのだが、この点、世間的評価(というよりもアニメ史的評価)はどうなっているのだろうか。「千年女優」は、小説にするとしたら、前衛的でとても読めないものになるか、あるいは構成にやや凝った一代記になるかというような作品で、映像だからこそ実現できたおもしろさに満ちている。「千年女優」以外の作品は、よくできたアニメということに留まると思う。
 手作り的な人形アニメの作家と大集団で造るセルアニメの監督を較べても仕方ないのだが、ネット内の落差に、呆然とするところがあったので少し書いてみた。相変わらずまとまらないな。

 ところで、今敏の監督作品や人形劇三国志について、好きだったという意見がブログに多く見られたのは、追悼記事なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、いつでもこの「好き」だという感覚についていけない。好きだと断言できるところが、不思議というか、「好きなんだ……」と驚くというか。
 ずっと昔から何度も書いているが、好き、おもしろいと思う、良いと思う、の間には越えがたい差があって、好きなものは、この世の中にいくばくもない。「好きなもの」を訊かれると困惑する。あるいは好きなのか嫌いなのかということを問われると、返答に詰まる。そもそも好き嫌いは、年とともに変化するし。今敏も喜八郎も好きかと問われれば好きではないかもしれない。もちろん嫌いなわけではないが。好き嫌いを言うその個人を知りたいのなら、好き嫌いを問うことにはそれなりの意味があるのかもしれないが、本質的なことだとは思えない。
 もう一つ、ジャンルとか種類とか、おおざっぱなくくりの方が、好き嫌いを言うに適していると思う。アニメが好き、詩が好き、音楽が好き、幻想文学が好き。わかりやすい。個別へと分け入っていくと好き嫌いの判断は難しくなる。それが普通のように思えるのだが。