邂逅

 四日、井上輝夫先生のお宅にお邪魔した。。
 七月十六日のブログをお読みになり、わざわざホームページを探して連絡を下さったのである。旧交を温めましょうと言って下さったので、先生の気が変わらないうちにと速攻で押しかけた次第。まあ、〈いらちのラン〉という二つ名を持つ(のか?)私の、性急さもある。
 実は、詩集の帯にあった大岡信の推薦文に、「永らく日本を留守にしてていた」という言葉があったのが気になって、改めて先生の経歴をネット上などに探ってみた。先生は国外に出てしまわれたのかも……と思っていた時があったから。それでわかったことは、先生はずっと慶應にいらしたのだけれど、SFC(慶應義塾の湘南藤沢キャンパス)の立ち上げに参画なさっていたということである(大岡信の言は、ニューヨークに赴任していた数年のことを指すようだ)。私が詩から離れてしまったために先生の文学活動が見えにくくなってしまったということもあるけれども、文芸シーンから後退しているように見えた間、先生は大学運営に時間を費やしておられたのだった。しかも、SFCとは! その間のお話もほんの少し伺うことができたのだが、それはたいへんな道であったろうと思う。
 そうした、いわば実業家としての先生というのは、私のまったく知らない先生の側面である――と書きながら、実のところ、私はもともと先生のことをちっとも知らないのだ、とも思う。同時に、お会いした井上輝夫という人は、私のよく知っている人でもあった。人間が知り合うというのは、どういうことなのか、思いを致さずにはおれない。

 先日のブログより少し詳しく書いておくと、私が早稲田大学の文芸専攻というところにいた時、井上先生はゼミに近い詩の講義をして下さった。当時慶應の経済学部の助教授でいらしたと思うのだが、早稲田に非常勤講師としてお見えになったのは、文芸専攻のドン・故平岡篤頼の慫慂があったからだという。三年生の時、やはり現代詩の評論をやっていた男子と二人で、先生のあとをついて回った。彼の方が先生とは親しかったのではないかと思う。私は四年の時、井上先生のゼミに行かなくて、彼に怒られたことがある。
 いや、あまり過去のことは思い出したくもない。過去を美化し、ノスタルジーを抱くためには忘却力が必要だが、私には著しくそれが欠けている。まずいことほどよく覚えているものだ。
 その時の私たちにとっての先生の肩書きは、〈慶應の教授〉ではなく、詩人でボードレール学者というものだった。そうして受けた講義の中で、私が最も鮮明に覚えているのは、ボードレールの詩の詳解というか、徹底分析である。フランス語がちんぷんかんぷんな私にも判るような講義だったが、もちろんフランス語の詩を用いての講義。そうして、私は言葉を扱うということの奥深さを悟らされたのだった。
 また、多田智満子もオクタヴィオ・パスも先生が導いてくれた存在である。ともかくもいろいろなことを教わった。しかし、実のところ、そんな個別のことではない。私が井上先生を唯一の師だと思い定めるのは、そのような個々のことでは、本当はないのだ。
 私は小さいころから学校と教師というものが好きではなく――もしくは学校という制度を嫌悪しており、教師に敬意を抱くなどということは絶えてなかった。あるいは、今の若い人たちにとってはそれはあまりにも当たり前のことかもしれず、また、私と同世代の人たちにとってもごく一般的な傾向であったかもしれない。その結果として、学ぶということについて、きわめて傲慢になるわけで、やはり幸福なこととは言えず、これは日本の学校という制度がもたらしている弊害なのではないかという気がする。一方で、文芸の道に進もうとする者は、誰しも自分が私淑する師を持たずにはいないというところがあるのではないか。幻想文学で言えば、それは例えば澁澤龍彦であったりするわけだが、私はこの点でも大いに外れてしまい、尊敬し、その跡を歩みたいと思うような存在を一切持たなかった。そもそも私が考えているようなことを考えたり実践したりしている先達というのがほとんどいないのだから、いかんともしがたい。
 井上先生にしても、フランス文学者なのだし、加うるに詩の人なのだから、そのような意味で跡を慕ったわけではない。どのような角度から見ても、私は先生の弟子だとは言えないだろうし、言われても迷惑だろう。けれども、井上先生は、私がただ一人教師として尊敬することのできた人であり、文芸に関する教えを受けたと感じている人だ。それは学殖であるとか思想であるとか、そういったものとは別のたたずまいのようなもの、文芸――この場合は詩であったわけだが――に向う誠実さ、時に朴訥とさえ思える非権威主義的な態度……言葉にしてしまうと、浅薄な感じがせざるを得ないが、そのようないくつかの言葉には簡単に還元できぬ、一個の人格への敬愛である。それも、友人という立場のそれではなく、あくまでも教師であり、はるかな年長者としてのそれだ。今にして思えば、私は、たいへんに恵まれていたのである。そのような教師を一人でも持てたのだから。

 『幻想文学』を初めてからの二年間は、とても不安定な時期で、理解もされず、挫折の連続という感じを抱き、とにかく心弱かった。井上先生にも言訳ばかりを並べた手紙を書いて、アカデミズムからも詩からも遁走してしまった。まったく思い出したくもない事柄で、その後長く、それは私の中に負い目となって残ったけれども、もちろん先生はそんなことは覚えてはおられないだろう。
 同時に私は、四半世紀にわたって先生の面影を胸の中に生かし続け、年長者の鑑とし、愛してきた。例えば過去の文学者の作品が力を持つかぎり、その文学者が思い出の対象にはならないのと同じように、私は井上先生を思い出の中に蔵ってしまったことはないのである。けれども、その井上先生とは誰なのだろうか? それは明らかに、二十歳の私の中で理想化された人格ではないだろうか? そしてまた、こんなことは当の先生のまったくあずかり知らぬことだろうし、また、責任を負うべきものでもないだろう。これは徹底的に非対称な関係で、時に教師に類する職業が負う業のようなものだ。教師は……良い影響を与えるばかりとは限らないだろう。
 普通、そのような関係はそのままに終わる。つまり、私は井上先生と邂逅することはないだろう。生きているベースが異なるから、偶然出会うことはない。そして、非対称であることを認識しているのだから、こちらから声をかけることもないだろう。けれども、今回、先生の方から声をかけて下さって、お会いすることができた。私が会いに行ったのは誰だったのだろう。また先生が面会した〈私〉とは誰なのだろうか?
 三十年の時間を埋めるべく、あるいは、初対面の人間が来歴を語り合うように、来し方を語り合い、親しく言葉を交わしながら、私の念頭からはこうした疑問が去ることはなかった。つまり……私には、現在の七十歳の先生と、四十歳の先生とが常に二重写しのように感じられる。今、お会いしている井上先生は、私の頭の中にあった人物と、どれほどの齟齬があるだろうか? あるいはそれは、今、こうして話している間にも微妙に修正されていっているのだろうか? 先生は私の記憶をどこまで持っているのだろうか? たとえ僅かな記憶があったにせよ、二十歳と五十歳の隔たりは、四十歳と七十歳のそれよりおそらくは大きかろう。それを、一人の人間として組み立て直しているのだろうか。それとも……?
 私にとって、私の中の先生のイメージはあまりにも簡単に現在に結びついた。もちろん知らないところもたくさんあったけれども、根源的なイメージは変わるところがなく、やっぱり自分もこのように歳を取りたいと思えたのだった。それは、私が本当のところはよく知らない井上輝夫という人物をちゃんと捉えていたということなのだろうか。それとも、私は現実を前にしながら、自分が抱き続けてきた幻想に固着しているのだろうか? はっきり言って今でもわからない。人が人を知るとは、単純なことではなく、同時にとても簡単なことでもある。知り得ることなど、本当はないのだと思ってしまえば、簡単なのだ。自分が受け取った感覚だけを信じればいいのだから。あくまでも理解したい――とはあるともないともしれぬ〈真実〉をつかみたいということだ――と欲望すれば、複雑になる。不可能を可能にしようと、全知を使うことになる。もちろん、今私は文学とのアナロジーで考えてしまっているのだけれども。

 このような体験は、望んでも得られるものではなく、とても貴重なものだ。この経過のすべてが、たとえようもない奇倖だと感じる。人と巡り合うことには、常に驚異がつきまとうけれども、最初の時ばかりでなく、その二度目の邂逅も驚異に満ちているというのはどうしたことだろうか。このことばかりは、とにもかくにも神に感謝したい思いでいっぱいである。