オリエンタリズムの逸品

黄衣の王 (創元推理文庫)

黄衣の王 (創元推理文庫)

 ロバート・チェイムバーズの『黄衣の王』を読んだ。同書は呪われた戯曲〈黄衣の王〉をめぐる四本の短篇連作と長編「魂を屠る者」を収録している。いずれも恐怖小説ではあるが、ノスタルジーに満ちた佳作であり、ホラー、オカルト小説のファン以外にも薦められる作品集となっている。チェイムバーズは19世紀末から20世紀始めに活躍した流行作家であり、精神病をめぐるロマンティシズムをはじめ、女性観、東洋観、合衆国観まで、当然の時代の制約を受けてはいるが、レイシズム、女性蔑視などは感じられず、その点は安心して読むことができる。
 とはいえ「魂を屠る者」(1920)がオリエンタリズムの産物であることは間違いなく、その手のものは一切受け付けないという方にはお勧めしない。
 四編の連作のうちでは「評判を回復する者」が素晴しく、異貌のアメリカ史と共に紡がれていく幻想が、めくるめくような感覚を読者に抱かせる。〈暗示〉と〈狂気〉によってすべてが説明されるが、しかし、そうした合理的な物語の結末はつけたりに過ぎない。作品が決着することは、このような作品では問題にならないだろう。読むこと自体が魅惑のような作品なので、読者の興を削ぐような説明はいっさいしないでおきたい。筋の少しを説明してしまうだけでももったいないと感じられる作品はそうそうないものだが、これはそのような作品の一つである。幻想小説の愛読者には強く一読をお勧めする。
 「魂を屠る者」は東洋の秘密結社が霊的能力を駆使してこの世(というかアメリカ合衆国)に脅威をもたらそうとしている、という典型的なオリエンタリズムの作品である。しかしそのオリエンタリズムは、現代のホラーが安易に東洋=悪というイメージを用いてしまうのに較べると、はるかに紋切り型ではない。〈悪〉に措定されているのはボルシェヴィキアナーキズムだろう。この点では合衆国の立ち位置はまったく変わっておらず、こうした作品を読むことで、むしろ現在の合衆国の古くささが露呈してしまう。
 特異な宗教を持つ種族の名前が出てくるが、この点については訳者の解説を参照していただきたい。ここでは『東方見聞録』で語られる「山の老人」のイメージをもとにしていることに触れておきたい。この作品では、山の老人の暗殺集団が、オカルティックな集団として、非常に魅惑的な設定で甦っている。山の老人とアサッシンの幻想は、現代のホラー、伝奇小説などにも使われるファンタジーで、最近では例えば宇月原晴明が『黎明に叛くもの』でこのファンタジーを用いている。この暗殺教団をめぐる幻想の歴史は複雑なものがあるが、小説での用いられ方は、チェイムバーズ以前にどうだったのか、この流行作家の与えた影響はどうだったのか、とそんなこともつい考えてしまった。文芸上のオリエンタリズムは、今もなお文芸史においてきちんと解読されているとは言い難いと私は思う。時代の制約を受けた作品を、文化史的な視点からいたずらに批判しても建設的とは言えず、もう少し幻想の醸成ということについて思考したらどうかと思う。
 この作品では、東洋の言葉、東洋的な言葉が一種の詩的言語として用いられ、〈東洋的〉と思われる詩が挿入され、〈東洋の美女〉は素晴らしい魅力の持ち主というように、一面では大きく東洋の美化が図られる。一方、恐るべき悪の存在も東洋のものであり、西洋のもの(アメリカ合衆国の諜報部員)はそれに対抗する術をまったく持たない。つまりは、東洋への魅惑と恐怖を一身に体現したオリエンタリズムの精華とも言うべき作品の一つなのである。こうした作品を通して、私たちは、東洋という未知の領域への憧れと恐怖が、共に大衆を魅了したということを知る。そこには人間の持つ根源的な性質の一つが隠されている。それは文芸上の〈女性幻想〉と並ぶきわめて大きなテーマであり、だからこそ私は〈東方幻想〉にこだわる。それにしても終刊号だというのに、あの特集は惨憺たる売れ行きだった……ああ虚しい愚痴はやめよう。
 さて、この作品では、なぜか東洋の美女が西欧の男と結ばれることになる。ユルンとベントゥン、サンサとセルダンという中国の霊能力美女と合衆国の諜報員の組み合わせだ。なぜこのようなカップルが生まれるのか? オリエンタリズムだから……というのではいくらなんでも答えにならない。読者サーヴィス……というのはありだが、どんな点で? アメリカによる東洋の征服という隠れた欲望だとか……いやもうそんなふうに読み替えるのは、それを商売にしている方にやっていただこう。そもそも精神的に征服されたのは男の方で、女ではない。むしろ、女の方が強くて、能力もある。ヒロインはアメリカ人だが、エキゾティックである点では、ユルンやサンサを凌ぎ、その点が男性諜報員を魅了するのだから、このカップルにしても、前の二組とそんなにイメージが隔たるわけではない。ちょっとした思いつきにすぎないが、女性読者にもファンの多かったチェイムバーズは、非現実的な女性をもってくることで、ラヴロマンスの白々しさを回避したのかもしれない。いわば〈やおい〉効果。まあ、あまり冴えた説ではないけれども。この組み合わせは、単純に絵になるから……とでもした方がましだろうか。おそらく、女性幻想と東洋幻想という二重の幻想が重なり合う、東洋の霊的美女という存在は、やはり手に入れずにはおられないほど魅惑的だった、ということなのだろう。