俺俺

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星野智幸の新作が出ていることを新聞の紹介記事で知ったので、読んでみた。

 30歳近い主人公・均は、マック(マクドナルド)でちょろまかしたケータイで、〈母〉に電話を掛ける。成り行きでオレオレ詐欺のようになって90万をせしめた均だったが……
 さて、どう展開するでしょう? 次から次へと電話犯罪に手を染める……などということには、当然、ならない。
 仕事から疲れて戻ると、その〈母〉がアパートにいて、飯を作ってくれている。〈母〉にとって、均は既に本物の息子・大樹になっていたのだ。大樹の経歴は何となく均に似ているが、やはり違うものは違う。焦った均は家出したかっこうの実家に二年ぶりに戻ると、そこにはもう一人の均がいるではないか……
 というわけで、現代にはアイデンティティなんぞない、誰でも入れ替わり可能なのだ、とばかりに、AがBに、BがCに……というふうになっていくのか、と思うと、それも違う。
 ここからが独創的なところになるのだが、自分が無限に増殖していくのだ。最初の方の、なんとなく似ているという設定は、どんどん拡大解釈されるようなかっこうで、誰も彼もが自分だということになり、凄惨な展開となる。

 星野って自傷行為が好き? それともただのサディスト? と思うぐらい、残酷な話を多く書いているけれど、全体のテイストは相変わらず寓話的になって、ファンタジーとして完結しない。だから凄惨さも我慢できるのだろうけれど。
 今、独創的と書いたけれど、そこから先、SF的な理屈では辻褄が合わなくなっていき、物語は抽象化され、観念的になる。この点が評価の分かれるところではないか。紹介記事では結末がやや説教臭いというように批判されていたが、ここのところへ落としたのは、抽象化されていたものを現実に引き戻すための作業と思われる。だから、ここまで抽象化してしまうのか、というところで既に違和感があるのではないか。まあ最後は付けたりだからどうでもいいと私は思うのだが。

 小説の内容とは関係ないことだが、主人公の実家はうちの比較的近所に設定されている。行動範囲というか。また、主人公たちの母親とそんなに年齢が変わらないので、子供の気分よりは、母親の気分になるわけだが、まあそういうこともあるだろう、と思ってしまう。誰でも同じとかいう方ではなくて、自分の支配下に置こうとするようなことだな。親は常に一つの指輪を試されているのだとも言える。なんちゃって。