高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋)

 いとうせいこうの書評がおもしろかったので、読んでみた。

 自己表現のために書く、という言葉が、ずっとわからなかった。「自己表現」というのがそもそもわからない。様々な分野のアートに関連してこの言葉が使われる。自分のことを語る、ということなのだろうか? 
 ある時、この場合の「自分のこと」というのは、つまり「自分が感じたことや考えたこと」であるという説明を読んだ。要するに、自己表現とは、私の中に見せたい何らかがあって、それを表に出すことだったのだ。ブログなどは、それなら自己表現の場だな、と考えた。しかしアーティストに適用するのは、やはりなんだかおかしいように思ってしまう。私の考えでは、〈アーティストは何らかの感動を他者に与えることを存在証明とする〉。
 さて、高橋は、(ニッポンの)近代小説には何が書かれているのか? という問いを立て、それは「私を見て!という叫びだ」と答える。「自己表現のために書く」とはそういうことなのか? 「感動を与える」以前に、「私を見て!」という叫びがあり、そして見てもらえたら、そこで何らかの感動を引き出したいと欲が出る……ということか?……。いや、そうではなく、「私を見て!」と叫ぶからには、それなりのものを用意しなければ見てはもらえないとわかっているから、動かすようなもの(動かすと自分には思えるようなもの)を書く……のかもしれない、と漠然と考える。
 ところで、高橋はこの「ニッポンの小説」という言葉に、エンタメを含めていない。吉川英治司馬遼太郎は対象外であり、「近代小説」というとき、漱石・鴎外・直哉あたりから文芸誌に掲載されるようなものを考えている。それは、「私」(の内面)について書くものだ、というわけである。
 ここで高橋は「文学への信頼があること」を条件として付加してもいるが、それは高橋の漠然たる説明だけでは、「書くことへのしがみつき」とでも言い換えたくなってしまう。なにしろ、たいていの人(小説家)には「書くべき私(書くに値する私)」がない。そこで評伝小説が流行る、などと言ったりするのだから。つまり、内面を書く、と言っていながら、その内面は大したものじゃない、と高橋は言うわけだから。
 考えたことや感じたこと、あるいは内面でもいいけれど、こうした言葉はなかなか厄介だ。小説の定義などに簡単に使うべきものではないと考えるが、今はこだわらずに先へ行く。
 高橋の言葉を真に受ければ、文芸誌に掲載されている小説には「私を見て!」だけが残った、ということになるだろう。可否はわからない。私はそのような視点から小説を読んだことがほとんどないからだ。もちろん、星野智幸の小説のタイトルではないけれど、「俺俺」と叫んでいるような作品はどこにでもあるが、それが小説の大事なところだとは私は思っていないのである。
 この小説論は、柄谷行人の「日本の近代文学は終わった」に対抗して書かれたらしい。私はもともと柄谷のその論考(?)を読んでいないので、はっきりしたことは言えないのだが、高橋のこの小説論も対抗というよりは、補完しているような感じである。結論として「文芸誌は終わってる」。で、それは私が『文藝』の書評を読みながら思ったことだ。こんな書評が並んでいるようでは、活き活きとした力など持ちようもない。

 また、高橋は内田樹レヴィナス論を手がかりに、文学が権力に似ているということを言う。このあたりの所論はおもしろい。これは、「書くこと」そのものが特権的であるという長い長い歴史と無縁ではないと思うが、高橋が言いたいのはそこのところではなく、文学が整合性のうちに収まり、言語化し得ない何かを残さず、すべてを自明のものとしてしまうように働くとき、それは権力に加担している、ということではないかと私は読んだ。内田からの引用は「非-私であるすべてのものを名づけ、支配し、整序し、享受し、消費し、廃棄するという他動詞的な能作に耽っている。この私の自己中心的なあり方をレヴィナスは〈暴力〉と呼んだ」。すなわち、たいていの小説は〈暴力〉に過ぎないと言っているのである。
 高橋が自身が評論家のくせに、評論家は小説を理解していないという時、〈暴力〉をふるう者の最たる者が評論家だと考えているからだろう。もちろん〈暴力〉をふるわずには評論家ではいられないのである。これは評論家のジレンマで、それを意識しない人はまともな評論はできない。すべての評論の背後には、これは一つの乱暴な読みに過ぎない、という声があり、それは、評論を読む人も事前に分かっているべき、大前提である。その前提を許容しないなら、黙るか、ボルヘスが語ったように、作品書き写すほかなくなる。ボルヘスは写されたものにも存在価値があるというかもしれないけれど、そんなことを私は信じていない。
 評論や哲学はまったく無理だろうが、小説だってにこのような〈暴力〉をふるうな、と言ってもほとんど無理ではないか。高橋自身の小説も、まったくこれを逃れているとは言い難い。内田の本からは、カミュの『ペスト』をめぐる話も引用されている。「『私』の外部にある何らかの実体に『悪』を凝縮させ、それと『戦う』主体として『私』を立ち上げるという物語」。外側に悪を措定することがペストという現象であり、このような物語はダメだということである。(カミュがペストでそういうようなことを語っている、ということ。なんだかとてもわかりにくくなったが、これは内田のせいではもちろんなく、高橋のせいでもなく、引用をはしょった自分が悪い。)
 まさに高橋の最新作、子供が悪と戦う話らしいので、そのようなものではないのだろうか?(すみません、新聞のインタビューを読んだだけで未読です。ですから、違う、と反論が来ても当然と考えます)。
 高橋はそこで、古井由吉中原昌也の小説がそれを達成している可能性のある小説としてあげている。古井由吉については妥当だと思う。波があるにせよ、古井は、真に日本が誇れる小説家である。中原を読んだことがないのだが、高橋は「小説書きなんて仕事はイヤだ」ということ以外は意味がないこと(ナンセンスなこと)をずっと書いていると分析している。そんなにイヤなら仕事として書くのをやめたらどうか?とは思う。ナンセンスならば、言葉や物語を一義的に回収してとまうということもないだろうけれど、そんなことは文芸運動としてやるか、実験的にやるかというだけのことであって、それで継続的に書いて、お金をもらうというのは、まちがっていると私は考える。
 高橋は、あらゆる定型を逃れたい、権力にも加担したくない。ネーション? 冗談ではない、と主張したいのだろう。でも、日本で一番権威的な文芸誌にこれを連載して、本にしちゃったりするわけである。この点には矛盾を感じないのか? しかも、ずっと書いてきて、最後の方で、僕の言ってること、わからないよね、とのたまう。これは、読者をバカにしているのと同じだ。自分が言葉足らずで……とへりくだった様子で書いているが、なんというか、良くない態度だよ……。言葉によるコミュニケートはほとんど不可能な感じがする、という立場なのだから仕方ないのかもしれないけど、それなら資本主義的に書くのはやめたらどうか、と言いたい。それでも小説にしがみつく理由として、言葉のふるまいを見通すため、言葉が人間に何をさせようとするのかを見極めるため、と述べてこのエッセーを終えている。やっぱり金儲けと連動させてやらなくてもいいんじゃないかと思うんだけど(でも小さい子がいて生活がかかっているんだろうな……)。
 そして、高橋の一連の仕事が、それ(「言葉が人間に何をさせようとするのかを見極める」と言うような、言葉という存在と格闘するようなもの)を感じさせるものになっているかというと、私には判断材料が不足しているが(全作品を通して読む、ということをしていない)、少なくとも、「ニッポンの小説」という時の視野の狭さからすれば(とても多くの書かれた言葉と対峙するということをしていないからには)、それは期待できないのではないだろうか?

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●11日に書いたものに手を入れた。昨日、たまたま、知人から高橋源一郎に関する種々の情報を得たが、それは反映させていない。