ハリー・ポッターと死の秘宝

今さらだが、ようやく読了したのでちょっと書いておく。
以前、四巻まで書いたところと、意見に大差はない。
http://isidora.sakura.ne.jp/isi/ran37.html
やはり五巻以後はミステリ度は薄まり、作者から一方的に与えられる過去の説明が増え、謎解きはほとんど行き当たりばったりという状態となる。五巻はハリーの出生の謎をめぐって物語が展開し、六巻はヴォルデモートとスネイプの過去をめぐって物語が展開するというように、出来事はほとんど静的である。六巻の最後でようやく、ファンタジーらしさが見えてくる。七巻はおそろしくだるい展開だが、探索冒険行が主で、ミステリ度は低くなったと言えるだろう。ただしやはり基本はミステリ的な冒険物(ホームズも冒険物だ)である。
最終巻はあまりにもつまらなく、すべてが思った通りにしか展開していかない。前巻までを読み返す気も起きないので、記憶違いのところもあるだろうが、もう見逃して。
この、どうでもいいようなファンタジーが世界中に熱狂を巻き起こしたということ事態をどう考えればいいのか、また、今後のファンタジー史はどう語られていくことになるのか、私には見当もつかない。おそらく、世界中のファンタジー作家に、これだけの素材を使うなら、私の方がもっとマトモな作品が書ける、と思わせたのではないか? それがこの作品の最大の特徴だと私は考える。設定のおもしろさやガジェットのおもしろさなど、やはり評判になるだけのことはあるのだ。特に物語が進展しない、第二巻めまでは、ミステリ的にもおもしろく、それなりに読ませたのではないかと思うが、物語の設定上、巻を追うごとに視界を広げてリアリズムの方向へ行かざるを得なくなり、小説としてダメになっていく。しかし書きようによっては、もうちょっと面白くなったはず。これが「ハリポタ」という作品に対する私の評価である。
簡単に言えば大人の鑑賞に堪えうる作品ではない。親として子供に読ませたいかと言えば、こんなものは後回し、ということになるだろう。子供が読むべき良質の作品は、もっとほかにある。子供の頃に読んだ数少ないファンタジーが「ハリポタ」だというのは、哀れなことだ。

さて、「死の秘宝」だが、まず冒頭、ダーズリー家に帰っているところから話は始まる。あれ? 前巻の終わりからそのまま探索に行くわけじゃないのね。冒頭の戦いは、なるほど映画的見せ場になるだろう。しかし、こんなものはいらないでしょ。すべては全巻の形式をそろえるという「お約束」のために書かれている。ダーズリー家をめぐるテーマは、コメディ的伝統から出ているものであり、「お約束」のギャグなのである。そもそも第一巻での書き方からしてそうなのだ。しかし、ハリーが生き続け、コメディの中の戯画的存在ではなく、普通の人間として描き出されるに従って、この部分に現実的な物が交じってこざるを得ない。するとどうしようもなく掘り下げが浅い感じになる。1歳になったばかりの幼児は、ネグレクトによってはまともに育たないのである……。こういうぱからしさが随所にある。
ともかく上巻の半分くらいまではまったく飛ばしてもかまわない話である。こんなことで隠れているというなんて、著しくリアリティを欠く……というよりも「ハリポタ」はこの、お子様的お祭り要素・戯画要素と殺人、究極の選択というシリアスな要素とが入り交じっており、どうにも均整を欠く。これこそがローリングらしい手法なのだという「ハリポタ」信者はそれを愛していればよかろうが。
半分くらいまで進むと、探索行になるが、これがとことんいい加減で、推理も何もない。そもそもトム・リドルの過去を覗いた時点で、それは慎重に検討されねばならなかったはずのものだ……。記憶の洗い出しによる検討が一度、ハリーの愚かしいミスが結果オーライになるという例のパターンが一度、そしてヴォルデモートの思考を読むというパターンが一度。そしてこの、まったく方向性を欠いた探索行の中で、若者たちの未熟さが爆発する。中でもロンのダメ男ぶりはすごい。もちろん、このあたりはリアリティがあると言っても良いだろう。そして、こういうところに、読者はほっとするのかもしれない。結局はこういう弱い人間たちが「偉業」を成し遂げるのだから。ともかくも、三人の行動の中で、延延たる話し合いが長い時間を占め、徒に時を推移させる。そして長時間かけて練ったらしい計画の結果としての行動がおそろしく杜撰であるというばからしさ。特に金庫侵入は、こんな程度の計画なら一晩で立つ、というものだ。一年という時間がそんなに大事か?
ハリーの性格も揺れ動く。特にダンブルドアへの気持ちはさまざまに変わる。特別授業の間もいったい何を学んだのか、という感じである。また、アンチ闇の魔術派は断固ハリー支持、それはまさに他力本願の見本のような事態である。そしてそれを重荷に感じていたはずのハリーは途中で消えてしまう。たぶん人死にが多くなってその自責に関心が移り、やがてそれも、あまり死人のの多さにどうでもよくなってしまうのだろう。物語の途中で、ハリーは相変わらず見当違いのことに執念を燃やし、それを必死で軌道修正しようとするハーマイオニー。しかし理性の存在たる彼女も、ダンブルドア信奉者であり、とことん考え抜くことが出来ないことによって物語の進展を劇的にする役割を担っているため、読者はいらいらする。犯人を何度も取り逃がす「優秀な探偵」の物語のように。
探索行の終わりは学校になり、そこでドンパチが始まる。そしてたくさんの人が死ぬ。なるべく魅力的なキャラクターを殺してしまおうということらしい。そこでもハリー視点ですべてを説明するため、ハリーは必至で駆けていなければならないときに事態の推移をぼーっと見守ることになる。なんなんだこれは。そんなこんなで緊迫感に欠ける。さらには最後の対決に、伏線をすべて回収するべくネビルを使うが、やはりそのために、じっと待っているハリーがアホのように見えてしまうのである。(ところでネビルが使用した武器は何だったのか理解に苦しむ。読み落としているのか? 確認する気も起きない)。その後、ハリーは宿命の敵と対決するが、その時には、ヴォルデモートは誰でも斃せる状態になっていたのではないだろうか? そしてまた魔法の技とか強さとかはいったい何なのか? 

後半の巻になればなるほど主人公のキャラが魅力的でなくなるのは、作者の意図とは思えない。ラストではハリーはまったく予定調和的な働きをするからで、いかにもメタ・ファンタジー風と読めるところでも、意図してそうしたわけではないのだろう。
スネイプは五巻で一気にファンを増やしたキャラだと思うが、かつて書いたように、スネイプはその微妙な立場から、作品中で成長してきたキャラである。七巻は不必要と思えるようなスネイプの冷酷なシーンから始まる。スネイプの世界がハリーを中心に回っており、そのためにはどこまでも冷酷になれることを示すシーンである。しかし……こんなものは要らないのではないか? あるいはスネイプ・ファンへのサーヴィスだろうか? 実際、もうちょっと出てくるかと思ったのだが……というのが、スネイプが出てくるところで読み応えがあるため、読了したときに私が感じた気持ちである。しかしうまく絡ませることができなかったのだろうし、そのようにただキャラを出すだけのシーンなら不必要なのである。
ほんらい、スネイプのようにおぞましく魅力的でなければならないヴォルデモートは、ただのわがままなヒステリー爺さんであって、悪としての力はただの魔法力としてしか示されない。そのような意味でヴォルデモートという悪は描けていないのである。作者の限界ではない。アンブリッジの方が、よほど悪らしく描かれている。要するにヴォルデモートはおざなりなのだ。
また、ロンはハリー同様成長することのないキャラクターであり、愛の何たるかをまったく理解していないお子様のままに留まっている。それに対して、ハーマイオニーはしもべ妖精解放論者の立場からハリーに影響を与え、ドビーとの仲を修復させ、ロンという恋人を失っても大義に就くなど、たいへんな献身を見せる。彼女の刻苦と寛容は、副主人公の地位を外れるほどすごいものであり、ロンとのバランスが取れない。こうした不均衡は、物語の必然性からというものではない。大枠が決まっているのだから、どんな展開にだって出来るのである。しかしそれを敢えて著者はしていないと思われる。不思議でならない。
ばらけてきたが、かつてのように真面目に書く気も起きない。「ハリポタ」は結局私の心には真っ直ぐは入ってこなかったのだ。
最後に、このシリーズには、わけのわからない魔法がたくさん登場する。逆転時計や異次元バッグなど、ハーマイオニーが手にしている物は、これはないだろうという掟破りのガジェットだ。また、歴代校長の肖像画がもそうだ。これは……脳を転写した(人格転移させた)コンピュータにようなものだろうが……一種の死の無効化なのでは? どんな魔法の画法なのか、あるいはホグワーツの偉大な魔力なのか……とすると、あるいはホグワーツの校長とは、魔法省総理よりエライのでは? いや、こんなにダンブルドアが「生きて」いるなら、ハリーは危険を冒して学校に行くべきだったろう。どうしてその選択肢は考慮されないのか……こんなことはいくらもある。考えてもしかたない。つまり、この作品は読んでいる間中、「なんでこうするんだ?」というようなことが続出するため、楽しめないのである。

さて、ビリーズブートキャンプのごとく、一時席捲してすっかり忘れられたかのハリポタである。最終巻が出てまもなく二年になるが、その後のCiNiiではまともな論文がひっかからず、もちろんまともな本も出ていない。本当に一過性の現象だったのだろうか。まもなく、最終巻の映画も公開になるんだろうが、このどつまらなかった映画も(私は三つめで観るのを止めた)、面白いと評判になったので、また評価されるんだろうか。個人的には『指輪』の映画化よりは罪がないと思うけど。
かつてハリポタを高く評価した井辻さんや高山さんはシリーズを続けて読んでこられたのだろうか。今はどんな感想をお持ちだろう。
本当に高く評価される作品なら、もうちょっと何か書かれるべきだ。児童文学だからというのは言い訳にならない、その部数を、影響力を考えたら、たいがいの小説より、その分析は重要だろう。馬鹿らしくて誰もやる気が起きないのなら、評価されるべき作品ではなかったのだ。しかし、そうであっても、現象としての「ハリポタ」は、今後の出版文化のためにも読み解かれねばならないはずだ。それは出版に携わる者の責務だろう。