リアリティを求めるということ

小説にリアリティを求めてはいけないのだろうか? 最近、読めども読めどもリアリティに行き当たらず、誰もそんなことを気にしていないどころではなく、最近では、それを求めるのは間違いであり、してはならないことだという風にでもなっているのだろうかと思ってしまう。
小説のリアリティとはいかにも上手に嘘が書いてあるということだから、嘘だと分かっているものをいかにも嘘じゃないように書くのは、フェアではないとか? 所詮嘘なんだからそれをひけらかすように書くのが現代的だとか?
この問題はちょっと書く、には重すぎるが、書いておかずにいられない。リアリティとは、写実的だということではない。実写映画とアニメーションのアナロジーがわかりやすい。実写は、普通に撮れば写実的であるほかないが、アニメーションは写実ではあり得ない。しかしリアリティのない映画もあればリアリティのあるアニメもある。本当らしさとは、事態そのもの、心理そのもの、関係そのもの等々のそれであって、たとえあり得ないことでも、本を読んでいる間、観ている間、信じさせることができればそれで良いのである。
B級ホラーを愉しむときのように、何でもメタ的に考えればよいというものではない。そんなのは疲れるだけだ。
テックス・アヴェリーのギャグ・アニメと宮崎駿もののけ姫ナウシカがごたまぜになったような長篇アニメばかり見せられてはたまったものではない。短篇パロディの手法で長篇を書かないでいただきたい。まったく本を読む気が失せてしまう。

先日、東京新聞高橋源一郎の新刊をめぐるインタビューがあり、あー読む気がしないような内容だ、どうしてファンタジーで書くのか、やめていただきたい、と思っていたら、まもなく文芸時評でも触れられた。「高橋源一郎の先鋭的な手法の到達点を示すような快作」(どわー、読みたくない)だが、「これがいま日本でおそらく一番文学的意識の高い作家にできるベストなのだとすると、日本の小説はいったいこの先どこにいけるのだろうか」とバッサリ。あーやっぱりつまらないのね。この後、沼野さんはポラーニョの作品を引き合いに出して、小説には可能性があるということで締めくくる。
この論は、文学的意識が高い=先鋭的な作品が書けると思うから、日本の小説に未来がない感じになる。文学的意識が高いと言ってもそのレベルはさまざまで、理論先行が小説にとって良いとは限らない。高橋が頭が良くて知識が豊富で優れているのはその通りだが、先鋭的な小説家として日本で最高位というわけではないのである。じゃあ誰が最高位なのかって? それは聞かないで。そして先鋭的な小説家といえども、日本では先鋭的な小説ばかり書いているわけにもいかないのである……。
私は、現代日本の小説のほとんどはもはやどうでもよいと思っているし、文壇も自浄能力が一切無いなとあきれ果ててはいるが、どうでもいい小説を持ち上げるのは、本当にもうよそうよ、とはつぶやきたくなる。ツイッターで愚痴ってなさいって? ああ、それは……なんて惨めなイメージだろう。