小説が終わること

小説を最後まで読んで読者は小説の全体(内面)を手にする、そして読者は内面の共同体に参画する。というのが昨日の石原千秋の本に書かれていたことだ。石原はプロットに隠された内面を求めて小説を読むのだと言っている。まあ小説の全体を内面だと言ってしまうなら、それは真理ではあるだろうが……。
ところで、今は、全体を手に入れなくても良い読者が増えていることを、どう位置付け、考えたら良いのか。物語の終わりだのなんだのというようなことではなく、端的に飽きてしまう読者たち。実は私もその一人であるのだが。
bk1の座談会で、山田悠介のファンだというある女性の話題が出た。その人は、山田悠介が大好きで、次から次へと読んでいるが、一冊読み通したことはないのだという。その時に確認はしなかったが、結末だけは見ているのではないだろうか? 全体像がわかったら、途中はすっ飛ばしたっていいわけだ。物語は内部で構築されるだろうから。例えばミステリを半ばまで読んで、あとは探偵が種明かしをするところを読んだっていいというようなものだ。京極堂が大流行だったころにも、拾い読みしかしない女の子たちの話題が出た(なんで女性限定なのか?)。キャラクターだけでも充分なのだ。
ではでは、文学の持つ意味とは、あるいは読者にとって読むことの意味とは?
調査するのも面倒なので、こういうことについても石原千秋に書いてもらいたかった。