この頃

耳詰まりがよくならないので耳鼻科に行ったら、中耳炎ではないと言われた。
耳の聞こえはわるくないのだし、空気を通してもよくならないし、なんかこの詰まった状態で何となく改善するのを待て、ということらしい。
というわけて耳詰まりの上にダイエットに失敗し、今日もまた体重増加で服が着られない私であるが、阿佐ヶ谷にアニメを観に行く。
昨日も夜もがらがらだったので、時間のあるアニメの好きな方、是非観にいらしてください。本日はエストニア作品集。
相変わらず意味は不明なのだが、こういうアニメもあるということを知ってもらいたい。

昨日観たのは、ロシアのイゴール・コヴァリョフ、イスラエルのギル・アルカベッツ、アイルランドのデイヴィッド・オライリーと日本の植草航、和田淳、水江未来ほか。
コヴァリョフは54年生まれで、冷戦終結以後の作家と考えてよいだろう。ブリート・バルンとの近似性を感じさせる表現と内容的なわけのわからなさ。特に91年の「アンドレイ・スヴィロツキ」は何の寓話なのだかサッパリ。ロシア通の人が観ればまったく違うのだろう、やっていることはわかりやすいので。ただ、画面にみなぎる緊張感のせいで、ただずっと見続けてしまう。「ヘン・ヒズ・ワイフ」も同じで、異様で衝撃的。この二作は良かった。代表作とされる「ミルク」はつまらない。
イスラエルの作家はほぼ同世代で、ユーモア溢れる寓意に特徴があるが、90年代の政治性・社会性と比べ、00年代のものは軽くなった印象。97年の「ルビコン」は誰が観ても楽しめる作品だろう。07年の「サニーデイ」も可愛かったが、ちょっと悲しい。「ダ・ヴィンチ・タイムコード」(09)は素晴らしいというべきなのか?(苦笑)
オライリーはデジタルを用いた変わった作風。「黒の湖」(10)が美しく、「RBG」が少年の冒険譚なのだが、デジタル描画のパロディ?という感じでなんだかなあ。鼠と猫の夫婦の物語「何か言って」(09)は一般受けすると思われる作品。
水江未来は今年の文化庁メディア芸術祭の推薦作にも選ばれた作家で、レン・ライ系の抽象アニメによって注目されている若手だが、何かちょっと物足りない感じがする。和田淳はまったくおもしろくなく(現代日本で描かれる作品がこれなのか?という疑問)、植草航はとても若い作家なのだが、非常によい。観たのはこの作品。
http://www.youtube.com/watch?v=YY-ZMJdm6nw
将来に期待。
同じことの繰り返しは、こうした個人制作アニメでは多用される手法だが、繰り返しの中の変化に必然性があり、全体として緊張感が持続されることが必要だと思う。でないと観ている方は飽きてしまう。これができるかできないかというのは、センスの問題なのだろうか? 文学だとなんでダメなのかなんでよいのか言語化できるのだけど、アニメはやっぱり難しいなあ。