中耳炎

1日に長坂に帰り、2日あるいは3日の真夜中から発熱・咽喉炎などの症状に見舞われ、右耳が詰まった。今日はようやく熱も下がったので、病院に行ったら、中耳炎であるとの託宣をもらった。少し本を読んだ。

石原千秋『読者はどこにいるのか』
 新聞の紹介を見て即購入したものの、どこかに行ってしまっていた本。現代文芸批評理論のおさらいともいうべきもので、教科書的にコンパクトにまとまっている本だが、私が期待したような、読者論を展開したものではなかった。テクスト主義批評が読者をどう捉えているかを語ったものに過ぎず、読者がどのような存在かに本格的に迫っているわけではない。もちろん多少の言及はある。
 中に「きらきらひかる」がフェミニズム的な小説として取り上げられているが、エキセントリックなヒロインの視点から見られるかどうかをジェンダーの試金石にするのはどんなものかと思った。むらさきのおじさんに歌う、というフレーズの解説があったが(ゴッホあたりの絵に向って歌うんだろうなと私は推測したが、本当はセザンヌの絵だそうた)、そうしたエキセントリックさを武器にするのは、「女」を強調する小説ではよくあることで、そういうものに私などはうんざりしているのである。それはいわば「ナジャ」問題とでもいうべき、ものすごく古くからある女を巡るテーマなのだ。これにひっかかると、女の批評家である私は、身動きが取れなくなる恐れのある、簡単には解決がつかないテーマなのだ。

これと一緒に行方不明になっていたのが「神父と悪魔」の第九巻で、十巻と併せて読了した。
いろいろ言いたいことはあるが、棚上げにしておく。完全にジェンダーフリーな堕天使ルシフェルがおもしろい。キス止まりの小説なのだが、人間の男性に合わせて女性と化した悪魔と神父の性行為にはいかなる意味があるのか? これはカゾットの「恋する悪魔」のごときなんともいえない倒錯性を孕んでいる。……しかしそんなテーマは、やおいの中では珍しくもないのだろうか?