小説の力

「ヤマトのポストモダンにあって、小説に歴史を変える力がない」

たびたび肴にして申し訳ないが【大波小波】"ハワイ王朝最後の王"の、池澤夏樹の新作『カデナ』に対するマイナスの評価、その決めぜりふである。池澤の小説は例によって読んでいないが、これまでずっと読んできた感触から、"王"が言っていること(クーラー効き過ぎのきれいなクレオール)は、言葉の使い方が間違っているとは思うが、ほぼ理解できる。しかし、なんでそこから上のせりふになってしまうのだ。理解できない。
池澤の物語は、60年代の沖縄の基地が舞台なので、この小説に歴史を変える力がない、というのは、過去を違うものに幻視させるほどの力がない、ということなんだろうか。もしもそうであるなら、その時代を生きた人や沖縄の人を基準にすれば、どんな小説でも過去を変える力なんてないだろう。このような過去の現実を別のものに見せてくれる可能性があるのは、優れたノンフィクションである。当時は未生の、今、20代30代の人々で、沖縄の基地問題に疎ければ、また別の読み方をするであろうし、そうすれば、これがその読者の中では歴史イメージとダブルかもしれないし歴史イメージに取って代わるかも知れない。そんなの読者次第だ。どういう知識を持っているか、どういう人生を生きてきたかで小説の読みは変化し、価値も変わる。
もしも、これからの現実を変えていく力がない、それも大きく変えていく力がないというのであれば、小説がそういう力を持っていた時代など、私は体験していない、と言いたい。小説の歴史は、たかだか400年だが、その中で、大きく歴史を動かせた事実などはどこにもない。歴史を大きく動かしてきたものは何か。それはまず外的環境(自然の変化)とそれに対応して発展していく科学技術である。内面的なことを言えば思想(宗教を含む)である。思想も所詮物語である、というところまでは話をゆずるとしても、それは小説とは何の関連もない「物語」である。
小説は思想を含んでいて、読者に影響を与えるから、小説もまた歴史を動かしてきた部分ではある。それよりなによりすべての無名の生きて死んでいった人々が歴史を作った。いや、というよりもこの世の総体を時間的に眺めることを歴史というのだから、あらゆる存在は、常に歴史を動かし、つまりは変え続けている。
繰り返し書いていることだが、小説に何を望んでいるんだろう。ものすごく影響を与えることなんだろうか。現代に於いて、「歴史を変える力がない」とか評されたって、池澤も困惑するだろう。そんなことはわかっているけど、それでも彼は沖縄のことを愛してそれを精神的に救うために書いているのではないだろうか? 小説では政治経済を動かせないことぐらい、今時、どんなナイーヴな人間だってわかっていることだと私は思うのだが。
ドン・キホーテのように、古典でありながらいつまでも新鮮な偉大な作品を望んでいるのだろうか。ばからしい。
そういう作品が現代でも書かれているかも知れないが、私には判断が付かない。ただ時の濾過を待つのみである。
本当はこの話を枕に、内面や思想を描く話にするつもりだったのだが、うまくいかなかった。
ここで書いてるとたびたびフリーズして恐いので、今日はここで切り上げる。