「チャタレー夫人の恋人」裁判

『チャタレー夫人の恋人』裁判―日米英の比較

『チャタレー夫人の恋人』裁判―日米英の比較

倉持三郎(1932〜)著。2007年刊行。彩流社の本なので誤植が多い。ここはデータそのままで編集者が校正してないんじゃないかと疑っている。
しばらく前から伊藤整と関連書を読んでいる。伊藤整は「チャタレイ裁判の意味」というエッセーで、この裁判は戦前にあった検閲の復活的な意味合いを持っており、それに抵抗しているのだと書いている。つまり、発禁措置に至るには風俗壊乱罪と猥褻文書頒布罪とがあり、前者に関わる出版法は検閲制度によって戦前に猛威をふるい、1945年に効力停止、49年に廃止されたのだが、この裁判(1950年起訴)ではむしろそれに代わるものとしてこの「猥褻文書頒布罪」の適用範囲を広げることを目的としているのではないかというわけである。つまり、「出版法」健在ならば、風俗壊乱の罪に問われたかもしれないが、それがなかったので、むりやり猥褻罪を適用したのだ、ということである。
果たしてそれが真実であったのかどうかはわからないけれども、当時としてはこの感覚を抱かざるを得なかったということは理解できる。その後、この風俗壊乱に関わる部分は青少年保護という名目による有害図書指定制度に組み込まれていったのではないかと推測する。政治・政府に対する批判等は、出版上はいくらでもできるようになり、有害図書には指定されなくなった(とはいえ、批判的情報が完全に自由に流通するわけではないのは、ビラ配りが住居侵入で有罪になったことでも明らかである)。だが、残虐表現、自殺を促す、その他種々の恣意的な判断によって、遮断措置が取られている。実際には発禁でもなんでもないが、現実的に発禁に近い効果があるともいわれる(私には判断が出来ない)。それは、表現の自由問題に常に影を投げかけており、現在の東京都の条例問題にも連なっている。
さて、このようなチャタレー裁判を、本書では、米英の裁判との比較において検証している。そして猥褻か芸術家という視点でのみ、話を進めている。
簡単にいうと、1867年にカトリック教徒を批判した文書に猥褻な部分が含まれているために猥褻文書として有罪になった、その時の判定基準(ヒックリン判定基準)がチャタレー裁判では適用されたが、英米では、1930年代からその判定が疑問視され始め、1957年頃にそれが無効とされて新しい基準が出来たために、猥褻文書取り締まりについての考え方が大きく変わったということである。
ヒックリン判定基準とは次のようなものだ。
1 書かれた文書の目的がどうであるのかは顧慮しない。
2 部分が猥褻であればそれは全体として猥褻文書であり、文書全体を読んで判断することはしない。
3 若い人や影響を受けやすい人(無知の人や好色傾向のある人)を腐敗堕落させる。
 このような判定基準が、100年にわたって文学にも科学書にも区別なく適用されたわけだ。英米では猥褻がキリスト教との関連で、非常に重大視されたのであり、同性愛等ももちろん標的となった。このような英米の流れを見れば、伊藤(と弁護人たち)が検閲との関連を恐れたのは、やや的外れであったとも思える。しかし、日本の検閲は政治についてより一層厳しいという長い長い歴史を持っており、その恐怖感も並大抵のものではないと思われるので、この問題から、全体を考えようとした伊藤らの立場を否定出来はしないとも思う。そもそも、知識人というものは、そういう自由を奪うような権力と戦うべき存在であり、伊藤らもその使命を持って事に当たったのであろう。
そして、現在の都条例の新項目は、このヒックリン判定の権化の如きものではあるまいか。米国では、ヒックリン判定は憲法表現の自由に抵触するだろうという判断によって、否定されていった。このことも一考に値することであろう。
さてチャタレー裁判は一審では訳者無罪、出版社は扇情的な広告をしたので有罪ということになった(元来は猥褻文書ではないが、派手な広告によって猥褻文書の地位に引き揚げられた……という意味らしい)。ここでの判決の基準にはヒックリン判定が適用されている。この後、二審で訳者も有罪となって『チャタレー』は正真正銘の猥褻文書となり、最高裁で確定した。今でも無罪にはなっていないのだろう。そもそも日本ではこうしたものについて再審の道があるのだろうか。
 この本は裁判の要約が多くの部分を占めるため、実に面白い細部に満ちているのだが、1950年当時、吉田精一フェミニズム的な読みを早くも示している点に感動を覚えた。階級差と性の解放がテーマだとする見解が多く示されている中で、国文学の研究者として、女性の地位向上ということを訴えているのが興味深い。女は子を産む道具としてしか見なされていないのが封建社会であり、今でもそれはそうだ、というのである。女性を一人格として見なければならない。また、女性と関わる性を汚いもの、卑しいものと見る感情を排すべきである。「その点、『チャタレー夫人』は徹底した見解を持っておりますから、そういうような封建的慣習と、そういう感情を是正するために読まれていい本だと思います」。
 「徹底した見解を持っている」なんだかいい言葉だ。
 ロレンスは刊行当時にはしばしば発禁の憂き目にあった作家である。彼は卑しく猥褻な目が、作品を穢して猥褻なものとして読むことを嘆いた。よく言われることだが、猥褻だと思って読む者が猥褻なのである。そこにある美を感じ取れない者が、そこに猥褻を見るのである。

 さて、本書ではその後のサド裁判四畳半襖の下張裁判、愛のコリーダ裁判などを追っていく。結論的には、文書の意図、全体性を見る、青少年を基準としないという方向にはあるものの、なお、部分を見ることを捨てきれないでいる、ということのようだ。
猥褻性の判定基準は、次のようになるだろうか。
1 その時代の健全な社会通念に照らして、徒に性欲を刺激昂奮又は刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する。(いわゆる猥褻の三要素)
2 性器または性的行為の露骨かつ詳細な具体的描写叙述があり、描写叙述が感情、官能に訴える手法でなされている。
3 1が文書の中枢を占め、文書の効果が専ら、もしくは主として読者の好色心をそそることにある。
3が全体を見るかどうかで揺らぐところであり、この方向性にはあるもののはっきりしないという結論である。つまり、チャタレー裁判の判例はまだ生きている。ということは、裁判をすれば、現代の通念で猥褻なものは、文学的価値があろうが無かろうが、やはり有罪になる可能性があるのだ……。以前の日記で書いたことは間違っていた。検事はその点に踏み込まないために起訴しないのだろうか? もしも裁判になったら、最高裁はどんな裁判をするのだろう。判例の拘束力はいつまで続くのだろう? もう半世紀を経ているのだ。そんな、たかが数人の見解が半世紀も人の考えを拘束することがあっても良いのだろうか? とはいえ、少なくとも『チャタレー夫人』は現今の性意識からしたら猥褻の三要素を満たさず、再審されれば無罪となるだろう。