前衛・前衛!

昨日の【大波小波】らっきょう氏の説に笑いが止まらない。出ましたっ!てな感じ。
平田俊子の小説を「柔らかい前衛」と称している。私は作者の詩は読んだことがあるが、記憶には残っておらず、小説は読んだことがない。従って、例によって【大波小波】の言説を嗤っているのである。

 ……火事・庖丁など象徴イメージの連鎖と展開という技法で、随筆・紀行文も平然と混ぜこみ、小説概念をさりげなく突き崩している。
 時間・空間の常識を無視し、死者が突然語り出したりする自在な平田表現には、より詩的な旨味もある。

 芸術における前衛というのは、conventionに敢然と挑戦し、実験を繰り広げるという意味である。そうじゃないですか?
 時代の最先端を行く表現のことであり、多くの場合、批判され、理解されないものであるが、まあこの点は純文学の慣例に倣って(純文学では前衛であればもてはやされるそうだ)、定義に取り入れなくても良い。
 そして、前衛が見慣れた物になると、全体に吸収され、前衛ではない一様式となる。でしょう?

 そしてここに書かれた平田の手法は、もはや前衛でも何でもない。それが過激ならば、もしかすると前衛の域に達しているかもしれないが(しかしそれにしても真の前衛とは言い難いけど)読者にすんなりと入ってくるくらいだから、飯島耕一ほどにうるさいことをやっているわけでもないんだろう。それを「柔らかい前衛」と呼ぶなど、笑止もいいところ。前衛には柔らかいも硬いもない、ただ前衛があるだけだ。
平田も迷惑だろう。自分にとってリアリティのある方法で良い小説を書こうと思っているだけなのに、まるで、様式面で挑戦的なことをしているみたいではないか。