表現の自由 覚え書き

基本的人権は人間の自由をうたう。表現の自由は、その大きな柱の一つである。
表現の自由について、どう考えるべきかについては、さまざまな温度差がある。
私は、すべての表現は規制されるべきではない、という立場に立つ。例外を設けると、それは何らかの思想を反映したものとなり、偏向せざるを得ないからである。偏向を一度受け入れれば、とめどなくなる可能性をも引き受けるということである。中国共産党のような言論規制に従わねばならない日が来るかもしれないということである。
批評家であるということは、その言論に対して不愉快だという人が多数存在する可能性があるということだ。自分の言論が規制の対象にならない保証は何処にもない。従って、あらゆる表現に規制をもうけるべきではないと考える。
同時に、さまざまな表現・思想に対して批判を展開することができると考える。
自分とは異なる世界観を有する者を、力(権力)によって強制排除するのではなく、言論を通して排除しようと試みる。(原理的にはその者を排除するのではなく、その表現が持つ力を失わせる。)
これが表現の自由を支持するということである。
表現の自由を規制する公共の福祉とは、人権の衝突する場における調節弁である。従って、それは本来、個々のケースに於いて、表現の自由とその他の権利(生存権、精神的な巨大なダメージ、名誉やプライバシーの保護等)のすりあわせが行われることを許容するものであるはずだ。憲法下にある法律が猥褻物頒布、児童ポルノなどを取り締まることを可能にしているのは、本来、このすりあわせに関して国民的合意が得られていると判断した結果と考えられる。それでもなおかつ最小限の侵害にとどまるように配慮すべきだ。また、規制の要件については可能な限り曖昧さを排し、一人でも多くの人間が納得できる者とすべきだ。
というのが私の考えである。

大きな権力を持ったら、世界の改革を夢みない者がいるだろうか? しかし改革の夢はさまざまな形で挫折することだろう。同時に権力をふるうことの陶酔をもたらすだろう。権力は絶対的に腐敗するという言葉を持ち出すまでもなく、権力者は常に自分の中のスターリンを恐れるべきである。

こうしたことはすべて現実にはうまくいかない。従って、私にはこの世界はとても生きにくい。