悪書追放・猥褻物頒布罪

青少年健全育成保護法改定案は児童ポルノ撲滅をうたうが、実際には悪書追放、および悪場所(昔なら歌舞伎小屋や寄席だ、今はネットとコミケか)への立ち入り禁止であり、悪書追放は児童ポルノ撲滅とは結びつかない。
悪書追放運動は、猥褻物頒布罪とむしろつながる。これは基準が非常に曖昧なので、取り締まる側がもしもいきなりピューリタン菌とかに冒されて取り締まり強化を始めると、昨日の無罪が今日の有罪となる(昨日の見逃しが今日の逮捕か?)。基本的にはチャタレー事件の頃と法律が変わっているわけではない。わいせつについて、またわいせつと芸術の関係についての法解釈も変わっていないらしい。
チャタレー事件、サド裁判などに見るごとく、猥褻物頒布に関わる事件は、文芸史的には相応の歴史を持つが、近年は、風俗が変わってしまって庶民の支持が得られないからか、ジャンル棲み分けの効果というものか、一般文芸誌に掲載された作品が、俗悪過激であっても猥褻物頒布罪に問われることはないようだ。マンガは摘発されている。まあ文章の力よりも絵の力の方が直接的で大きいからね……。
江戸時代の小説も作者・版元が逮捕・手鎖、また絶版といった憂き目にあっているが、小説は常に挿絵付きで、それがなければ、状況は違ったろうと思う(そもそも売れなかったろうから)。

ところで、先日読んでいた伊藤整がまさにチャタレー裁判の被告であり、有罪判決を受けたのだった。チャタレー裁判のことを考えると、自動的に浮かぶのが公衆道徳に反するとして有罪にされたボヴァリー夫人のことである。いずれも、女性が積極的に不倫する話だ。伊藤整は、ボヴァリーとはドン・キホーテだと分析する。即ち、ボヴァリーは頭の中がハーレクインロマンスに毒された女で、そのために現実を見失うのである。この見方は非常に多くの作品の分析に援用できるのだが、今はそれを考えまい。チャタレー夫人は、家の存続と女性の自由、自由な恋愛というテーマを巡る物語で、フェミニズム・テーマの作品である。この両者について考えると、女性の性欲自体が道徳的に問題視されるという傾向があるために、不道徳だの猥褻だのという観点が上がってくるのではないか、と思われてならない。性差別的な問題が潜むと思われるのである。もちろんただの思いつきに過ぎず、周辺事象をさぐった結果ではない。
猥褻物頒布問題、ポルノ問題には、性差別の問題がまとわりつく。ポルノはフェミニストに嫌われ、否定される。しかしポルノではない、女性の愛と性を肯定した作品も猥褻物問題に巻き込まれる。フェミニズムには、多角的に猥褻物の問題を考える必要がある。……たぶん、これは誰かが研究しているだろう。