手作り感?

先週の木曜はメディア芸術祭に行って朝から一日アニメを見ていたら、具合が悪くなり、死にそうになって家に帰ってきた。翌日もシンポなどがあったので行ってみたかったが、とてもその元気が出なかった。三月にはアニメ関連の催しがいろいろとあるのに、こんな状態で大丈夫なのか? やっぱり一年以上、運動もしていない状態なのがまずいんだろうか。でもまだ書庫もでたらめだし……。
さて、芸術祭のアニメ部門でで大賞を獲得した「つみきのいえ」は大画面での上映の他、終日流していたので、会場で見た人も多いだろう。とにかく結構な人出であった。それがアカデミー賞をとったので、いろいろなコメントが出ている。暖かみのある、というコメントは、凡庸きわまるにしても、まだいい。だが「手作り感のある」という批評(?)にはどうしようもない違和感を感じる。アニメは元来、手作りなものである。デジタル化が進んだのは本当に近年のことだし、人手で作るしかなかったからこそ、アニメーターの人件費などがずっと問題になってきたのだ。「手作りの」が「機械による」の反対語ではなくて、「個人制作の」ということであれば、そんなアニメも無数にあり、短篇アニメだったら他のノミネート作品もたぶん個人制作系だったろう。詳しくは知らないが。要するに、本当に手作りであるかどうかとは関係なく、「手作りっぽい」ということだろう。しかしそう考えると、貶し言葉に見えてしまう。
現実に絶え間ない手作業で制作されている多くのアニメ。個人制作なら、まずほとんどが手作業で、ちまちま作っているアニメ。現実に手作りされている物に対して、手作り感があるということは、その作業が透けて見えるということになってしまう。言っている側にはそんな気持ちはないにしても、稚拙だと言っているようにも聞こえてしまう。素人っぽいとか……。よく言い換えて素朴、ということだろうが、果たしてこれが褒め言葉になるのか? 少なくとも、これだけ丁寧に作られたきちんとしたアニメに対して、手作り感のある、という評言はないのではないか、と思ってしまう。
手塚治虫に「人魚」という短篇アニメがあるが、これなどはいかにも「手作り感のある」作品だ。しかしそれを長所ととらえているわけではない。素朴な味はあるけれど、やっぱりいかにも個人制作の、限界を感じさせる作品なのだ。それを印象悪くなく言い換えると、「手作り感のある」作品となるのである。
あるいは山村浩二の「田舎医者」に対して、「手作り感のある」などと言うだろうか? 言ったら失礼な感じがすると、普通は思うのではないか。
こうしたことは取り立てて言うべきほどのことではないのかもしれないが、とにもかくにも気になったので書いてみた。腹立たしい仕事からの現実逃避という面もある。ああ、仕事をしたくないなあ。