未明に煮詰まる

 未明とはびめい、読んで字の如くいまだ明けざるで、夜は明けないので、空は暗いがもうすぐ明けると予想されているのであり、真夜中ではない。
 旅立つ時は、しばしば未明に出発しているので、夏なら三時、冬なら五時頃であろう。現代の感覚としては、やはり午前三時頃ではないか。
 だが、気象庁の区分では、未明は午前零時から三時となっていて、報道では、真夜中の一時半頃に起きた地震について、盛んに未明の地震とやる。非常に気持ち悪い。
 未明はそうなのだと気象庁が決めたから? ばかみたい。
 で、同日の東京新聞では、煮詰まるという言葉など、意味の誤用についてのデータなどが掲載されていた。語の意味は変遷するものだと言いながら、無知な若い人をやんわりと非難する調子であるのは否めない。一方ではデタラメな言葉を堂々と使って(というか喧伝しておいて)、その一方では言葉の意味の変遷にがたがた言うなんて、なんとまあ見識がないことよ、と思うのである。
 
 それにしても煮詰まるが意味の転化を起こすのはとても自然だ。だって煮詰まっちゃったコーヒーや味噌汁はまずい。ろくなものではない。たから煮詰まっちゃった議論はろくでもない……。現実には行き詰まるとの混同なんだろうが、それを煮詰まった汁物が側方支援する(煮詰めて美味しいものがイメージされないのは、食習慣の変化の生もあるだろう、などと思う)。

 語の意味が大勢として変化することは避けがたいので、どう変わってもなすすべはないと思うが、語に対する感覚は、半世紀の言語との付き合いの結果なので、簡単には変えられない。
 てんぱるという言葉があり、この語を、子供はもとより、私より年が上の人も「ぎりぎりで余裕がない」「のぼせる」の意味で使うのを見ると、げっと思う。てんぱる自体がとんでもない言葉なので(麻雀の聴牌テンパイの動詞化、ツモ=あがりまであと一歩)、どうでもいいと言えばいいのだけれど、個人的にはてんぱるは大詰で、むしろ余裕のある感じなのだ。小さい頃から聞き慣れた言葉だから、いきなりそんな意味に変わられても、変な印象しか受けない。それにしても麻雀って今やすごくマイナーな遊び……なのだろうね、きっと。