場所の夢

 アランの『芸術の体系』をちらみしながら、またぞろ夢について考えた。
 数日前、巨大なビル都市を見学に行く夢を見たのである。夢の内容はともかく、その都市の俯瞰図、あるいは地図のようなものを夢の中に見た。
 目覚めて、似たような都市を含んだ、もっと縮尺の荒い地図を夢で見たことがあったなと思い出す。
 それで、場所の夢というのをよく見るな、と思っていると、記憶にとどめている夢が、次から次へと思い浮かんだ。ひどく古い夢の記憶もあるが、これなどは起きてから何度も反芻したもので、記憶の中にしっかりと定着しているのである。夢の記憶というよりは、もっと別の物になっているという気もするが、もともとは夢だった。
 場所を夢に見るというのは、ごく一般的なことではないかと思うのだが、というか、夢の中にいてもどこかに定位しているわけだから、場所の夢を見るというのは当然ではないかとと思うのだが、どうだろうか。そんなことはないのだろうか? よく夢の類型にあると言われる飛ぶ夢というものを私は見ていない、というか記憶に留めていない。飛ぶ夢は誰でも見るような言われ方をするけれども、どうして私は飛ばないんだろうか?
 しかし私は夢の中でさまざまな乗り物に乗り、また徒歩で歩いたり走ったり、動いてはいる。移動の手段は現実的で、飛んで近道をしたりはしない。むしろ夢らしいのは、途中をすっ飛ばしていつのまにか山頂にいるとか、そんな感じにある。
 また場所から逸れたが、しばしば同じような場所の夢を見る。現実からあまり遠くない夢を見ているので当然と言えば当然だが。そうすると、本当に夢の世界の地図が作れそうな気がする。場所、なので、建物などの夢も見るが、これまた間取りなどが書けそうに思う。もちろん夢はデタラメなので、書けるわけはないのだが、この夢の中の建物の間取りが、その幻想性も含めて書けたら素敵だろうなと思う。
 夢からも逸れてしまうが、ソニックの秘密のリングというゲームを子供たちがやっていて、そのナイトパレスというのが、ちょっとそんな感じだ。部屋が伸びたり、ワープゾーンがあったりする。ソニックのこのゲームでさえも、絵では描けても、建築的な間取りを考えるのは難しいが、夢の建築はもっと複雑に幻想的なので、到底表現することはできないだろう。
 夢の地図もやはり同じで、書けそうだと思っても、絶対に書けたりはしないのだ。
 夢の中のいろいろな場所は、私にとっては、現実の場所よりもよほど慕わしいのだが、それも夢なのだからやはり当たり前だろう。夢の中のような慕わしさの感じられる場所が現実にもあったらいいのに、と、馬鹿みたいなことを考える。