ミケリン・ガイド

 中学生のころまで、首都高から見える、変な雪男の看板を見て「ミケリン」と読むと思っていた。
 このミケリン代理の特許事務所から、HPなどのタイトルに「ミシュラン」と使うな、という回状が来た。そんなもの使っている会社があるのか? ありえねーと思うが、回状にしてくるくらいだから、個別に言うのも面倒なほどあるのだろう。三つ星とかも使って欲しくないらしいが、それはいくらなんでも無理なんだろうな。
 それにしても、ミケリンの権威というのはすさまじい。三つ星がつくと予約でいっぱいになって、海外からも客がわざわざやってくるというのだから。美食は恥ずかしい趣味だとは思うけど、その趣味の人はたくさんいるのだな、と思う。まあ、高級料理店の場合、この値段でこのまずさか、とは誰しも思いたくないので、信頼できるガイドが欲しい、というのはあるとは思う。しかし皮肉なことに、ミケリンでお墨付きをもらったりすると、もうそこのものはなかなか食べられないし、コストパフォーマンスは思いっきり悪くなるという、使えない状況になる。ガイドとしては役に立たない。
 先日の新聞に、ニューヨークタイムズの100 Notable Books of 2007に春樹のアフター・ダークが選ばれたと新聞種になっていたけど、そんな、社会面で字数を使うような話題か? 権威があると言ったって、年間に100も選ぶのだし、大したことはないじゃないか。到底ミケリンほどの力は持っていない。もっとも本に関しては、ミケリンほどの権威を誰も持っていない。前にイタリアだかオーストリアだかの書評家で、彼がほめるとその本がどどっと売れる、とかいう話があったが、世界中に対して影響力のある書評家なんてものはいない。そもそも、それができるほど本が読めない。
 ミケリンの調査をした日本人が誰かは知らないけど、本当によく食べている、舌を肥やして、それを商売にしている人でないと、こんな恐ろしいまでの影響力を持つ格付けは、おこがましくてできはしないだろう。もっとも書評の世界でも、情実がまかりとおるし、ろくすっぽ本も読めない奴が批評家として威張っていたりもするので、案外大したことのない人が格付けをしているのかもしれない。
 ミケリンはしかしどんな風な過程でできたものであれ、大仰に言えば神のごとき権威を持つと言っても良いだろう。一度でよいから、そのような権威を持ってみたいものである。さぞかし気分が良かろう。

 ミケリン・ガイドほどではないが、口コミとテレビの影響力ももちろん非常に大きい。日曜日にサザンテラスへ行ったら、なんだか行列がある。ドーナツ屋らしい。ドーナツなんぞ、並んで買うようなものではなかろうとは思ったが、まあ、話の種に……ということなのだろうな。同行していた友人は、「並んで買ってきてくれたのね!」と感激させるためのものだ、などと言う。そうなのか? まあドーナツで並ぶのは三つ星店の半年先の予約を入れるよりはかわいいか。あるいは庶民が順番を待つと言ったら、せいぜいこんなものだということか。待った分だけ口が満足すれば何よりではあるが。