スーハーもの

 ジュヴナイル・ポルノも何冊か読んでみたが、ゲームのノベライズもオリジナルもレベル低し。作家間に開きがあるので、中にいい作家もいるのかもしれないとは思ったけど、とてもではないがそれを探索する気にはなれない。というところで、仕事で来た本の中に青木日出夫(エロ本研究でも有名な翻訳家で、UFOだとなんだというような本も書いたりしている。会ったことはないけど奇人の一人だろう、去年亡くなった)の蔵書からの復刻昭和秘蔵本コレクションの最新刊『しのび逢い』があり、向学のために読んでみた。解説によるとこれは名作の類ではなく、いわゆる「スーハーもの」の典型だそうだ。「スーハーもの」って、既に死語。私だって、そういえばそんな言葉を聞いたことがある、という程度。この内容がすごいというか、ひどいというか。ポルノだからやってることはチェリーソフトのノベライズだろうが、未詳作者の半世紀前の作品だろうが、同じ、である。ただし言語が違う。昔のは「気をやる」という言葉を使う。これもたぶん死語だよね。私は普通の最近のポルノを読んでいないのでわからないけど。女の反応も一緒。男の特徴も一緒。やってることはカザノヴァ回想録の方が過激だったりするなあ。しかしこんなところで感心していなくても、エロス表現の変遷史というのは、ちゃんと追っている人がいるだろう。フェミニズムの観点からも実に興味深いテーマである。身体が三つあったら、古今東西の絶頂表現の歴史というのもやりたいなあ。
 さらに近親相姦テーマであるが、日本では古くは、異母兄妹婚というのが認められていて、異母でなくても、兄妹間の禁忌が非常に薄い。従兄妹でも結婚できない場合があるヨーロッパなどとは非常に違う。ヨーロッパ文学では法王の許可を取りに行くという話が近代でも出てくる。『しのび逢い』では、精力絶倫で人妻とやりまくってる兄が、無垢な(というか無知で愚かな)妹の初体験の相手となるのみか、関係を継続。兄妹間の恥じらい、禁忌感など、微塵もない。むしろ人妻とやっている方が問題で、姦通禁忌の方が強い感じなのだ。姦夫殺傷事件が起きて、話は収束に向かう。一方、現代では、例のチェリーソフトが兄妹間の子供の血筋が三百年に亘って周囲から呪われた目で見られているという信じがたい設定になっている。そうなら、何とかしろよ……。
 禁忌感覚というのは、時代と場所で異なるので、ファンタでそういう設定をする場合には、世界全体の構築についても、表現そのものについてもよくよく考えるべきではあろう。もちろんポルノにそれを求めているわけではない。本格的ファンタを書こうとするのなら、という話。世界について何も考えていないファンタばかりで、うんざりしちゃうのだよね。