プラチェット

 プラチェット企画で二つの質問があり、どちらにもうまく答えられずに気になってならないので、書いておく。
 一つは、グラニー・ウェザーワックスを含む三人の魔女集団における年齢差の意味について。母親的なものがあるのではないか、という英米の人(?)の発言。考えたこともなかったが、先だって翻訳されたマクベスをもとにした物語では、家族を皆殺しにされた少女が二人の老婆に拾われてそだてられる、という話になっていて、ここでは老婆(魔女的な暮らしをしている)は導き手であると同時に母親としての愛情を持っていた。これと比較して、ウェザーワックスの母性ということになると、どうもピンとこないように思える。
 導き手としての女性(グレート・マザー)というものはあるだろう。このことを言っていたわけではないと思うのだが(たぶん)、むしろこうした方面から、女性の知恵の伝承というフェミニスティックな神話に結びつける方が普通ではないかという気もした。一方では、グレート・マザーと母性という問題を考えながら、こういう導き手(モリス、マクドナルドからの伝統)について考えるべきではないかと思った。英国文学で言うと、ロマンスからノヴェルへと移る時に、こういう女性の影は消えたのではないか、という気がする。何も調べてないけど。というわけで、このあたりをもう一度きちんと走査して考えてみたい。

 もう一つは日本におけるユーモア文学の系譜について。とっさに答えられなかったが、もちろん連綿とあって、SFに限っても、大御所連はもちろん、かんべむさし、よこじゅん、清水義範その他多数が考えられ、現代ではほとんどドタバタに堕しているとはいえ、いくらでもある。考えようによっては、SFは最も笑いの文学を良く継承していて、なかなか優秀ではないかと思うのだが。
 表現としてどうなのか、ということで、これは翻訳の壁があるとはいえ、世界文学的な視野で検討したい課題だと思った。誰かやっているのかもしれないけど、笑いに関わる表現の類型の問題である。人は何をおもしろがるのか。意外に類型としては少ないのではないか、という気がする。どこをどうツボとするか、というところで分かれるようにも思う。
 あるいは上質のユーモアなどと呼ばれるのはどういう場合か。笙野頼子が笑えなくなるのはどのあたりからか。落語から松竹新喜劇などへと至る笑いと涙の共存について。とか。いろいろなことを考えて想像がとめどなくなってしまう。
 こういう話こそ、作家や翻訳家を招いて、SF大会でやるべきではないかと思ってしまった。
 賛同してくれる人がいれば企画を立ててもいいな。そんな暇があれば、だけど。
 ともかく、名鑑が終わらないと、何も始まらない。