モーツァルト・デイーエス・イーレ

ピアノの森」と「魔笛」怒り爆裂。見に行かなければ良かった。
 前者は森の中にピアノがある、というポスターだけを見て、ファンタジーだと思い、見に行った私がバカだった。くっだらねー内容。どうやら原作はマンガらしい。主人公の声優がヘタで聴けない。基本は天才対秀才だが、天才があまりにもアンリアル。ピアノの設定もファンタなのではなく、ただアンリアルなだけ。教師の元ピアニストのアジノっていうのがさいてーの傲慢ナルシスト野郎で、マジむかつく。
 音楽(芸術? スポーツも?)ものっていうとさー、好きなことでは誰にも負けない、とか、楽しんでやる、とか、そーゆー設定が多いけど、そういうのばからしって思わないわけ。根性ものにはうんざりだからそうなるのか? 音楽の場合は、歌を除けばものすごく好き、になるためには、やってらんない、といううんざりする練習の期間が必ずあるわけで(歌の場合は、ものすごく好きなのに本格的練習をすると嫌いになったりするかも知れない)。それから、ものすごく好きだけど、どうにもならない、という場合の方が圧倒的に多いわけで。つまりこういう設定は基本ファンタで、しかもそのファンタは実にさもしい空想だということを理解しているのか。才能のあるなしは決定的だが(歌なんか顕著)、ものすごく上の方に行くなら(みんなすごい才能だ)、そんなもの無効になるだろう。
 そもそも自由なピアノとかいうなら、どうしてクラシック? なぜジャズではない? フリー演奏ではない? コンクール? でもってコンクールは自由を認めないと見下す。音楽ものがいやなのは、いつでも本当に音楽そのものが好きなのか?と思わせることが多いから。あーいやだ。

 「魔笛」は、どんな解釈を見せるのか、第一次大戦を背景にするなんてどんな新機軸なのかと思ったが、わずかでも期待した私が愚かだった。
 ケネス・ブラナーは監督として才能はないのでは。そもそも映画での演技もたいていダメで、あくまでも舞台の人なのではないかと感じてしまう。超アップが多用され、基本はオペラなので(あくまでクラシックの歌唱法で歌っているので)、ショットとして非常に不愉快なものがあり、うんざりした。
 そもそも、「魔笛」がフリーメーソンの秘儀と関連することは常識だよね……たぶん。そうしたものとは別の解釈を見せるのかと思いきや、解釈もクソも、全体として何の論理も通ってなくて、わけがわからない。
 夜の女王とザラストロの対立を戦争(憎しみ)と平和(許しと愛)に読み替え、戦争を背景とするなら、すべての修行の階梯も、戦争を元にしたものに読み替えるべきなのではないか。猥雑な部分をより一層猥雑に残すブラナーの下品なギャグ感覚にもついていけない。美術も最初の塹壕の遠景を除くとまったくダメ。夜の女王が奈落へ堕ちていく場面のギャグ演出も何なのか、と思う。意図がわからない。塹壕に水を流して主人公たちをおぼれかけさせて、そこから塹壕上にひっぱりあげると、水の試練も克服したなどと……ああもう書いてるそばからバカらしい。魔笛をバカにするな、戦争をなめるな、ファンタジーを貶めるなと言いたい。フォークナーの寓話とか読んで勉強して欲しかったね。
 歌は、夜の女王は非常によい。しかしパミーナの高音が出てない! まあ、夜の女王さえ良ければいいという話もなくはないが。それにしては二時間は長い。

 「魔笛」の如きバカ映画を見ると、ファンタジーというジャンルそのものについて猛然と弁護したい気持になる。ファンタジーというのは現実遊離の絵空事を目指しているものではないんだよ。良いファンタジーは人間の意識を変えうるものなのだ。でもそのためには空虚で浮薄な願望充足の垂れ流しみたいなんじゃダメなんだよ。