ルネッサンス

 モーション・キャプチャーを基本にした3Dアニメ。ほとんど白黒で表現されている。ハイコントラストが多用されるので、目が疲れる。予告編の映像がおもしろかったので、期待して見に行ったが、あまりにもくだらない内容で、ビジュアル的にもどうということはなくというか、予告編以上のものがなく、見に行かなくても良い映画だった。
 今週末から、アニメがたくさん始まるし、デヴィッド・リンチはあるし、どうしようか、と考える。渋谷恵比寿まで出かけるのは、お金もかかるし、大変。しかもリンチの新作は、ものすごくおもしろそうだが三時間もあるのが玉に瑕である。渋谷に戻ってアニメを見る時間と根性が残っているか? こんなことを言っているからせこいと家族に嗤われるのだが。
 まあともあれ、来週までには定期の仕事と解説書きを終わらせたい。
 その都合上、またしてもブラバンものに目を通しているが、もちろん文庫なので、三年前の作品。シリーズものらしく、解説を読むと、前作は何か感動的な小説らしい。読まなくて済んで良かった。もしかして、こういう小説(中高音楽クラブもの)は結構多かったりするのか、私が無知なだけで。それとも著者は走りというか、そういうものなのか。ビッグバンドをやっていた恩田陸なども実はこーゆーものを書いているのか? などなどの疑問が湧く。
 さらに、以前『鳥類学者のファンタジア』でも疑問を呈したことがあるが、作家たちは、こういう音楽小説をどのように読まれると意識して、あるいは意識せずに書いているのか? 風景や人物のリアリズム描写の問題ともからみ、実に興味深い問題ではある。この本ではペットの「夜明けの訪れを喜んでいるようななごやかで柔らかい」ファンファーレが響いてくるというところから始まるのだが、果たして作者の意識にあったのは誰の(あるいは何の)曲か? 曲名を言わないことで、読者にイメージを委ねているわけだが、作家としては、読者に何を期待するのか。小説が単に情報の受け渡しに過ぎないと考えるとしたら、これは単にファンファーレというものの記号に過ぎないわけだが、それを望んでいるのか? いや、そのあとには、曲名もいろいろ出てくるし(私にはわからないものがある)、音楽をどう奏でるのか、リズム入りで示したりするから、記号と感じているわけでもないのだろう。
 読者の方も、どう読むのか。一般的には、音楽が好きで読んでいる人は音楽情報を吟味しながら読むのだろうな。物語が読みたい人は、そのあたりはすっ飛ばすのだろう。
 高山先生の『近代文化史入門』(奇想天外・英文学講義)などを読んでいたので、特にそんなことが気になった。