取り返しのつかない人生

 四捨五入すると50歳で、人生はほぼ終わっている。自分の人生を振り返ると、愚かなことに時間を費やしているということがよくわかるが、しかしそこはそれ、エラスムス大先生もおっしゃっておられる。
「〈陶酔〉〈無知〉〈自惚れ〉〈追従〉〈忘却〉〈怠惰〉〈快楽〉〈無思慮〉〈官能〉〈美食〉〈熟睡〉という従者たちの助けを借りて、痴愚女神モリアこそが世の中のあらゆる営みを支配している」と。

 このあいだ同窓会のあった中学では、しょっちゅう都内用の一斉テストみたいなものを受けさせられていたという印象がある。で、国数英三科目で、300点満点を取れば当然学内で1位になれるのだが、300点に欠けると、女子では1位でも、全体だと4位、ということがしょっちゅうあった。それは自分よりも上の男が3人いるということだ。私は家庭学習というものをまったくしない人だったので、ほかの人もそうだとずっと思っていたし、この三人に勝つために勉強しよう、と思うこともなかった。ただ、毎回、満点を取るつもりでテストに臨んでいただけで、結果が返ると、満点でもトップでもないことに憮然とするのである。
 しかしまあ、この三人が誰か、というのは、だいたいわかっていて、密かにライバル視していなくもなかった。男の方ではそうは思っていなかったろうが。そのうちの一人は、バンドなどして遊んでいるようで、明らかに勉強をしているようには見えなかった。もう一人は秀才型で、いま一人は、根本的に勉強が出来てしかも真面目にもに見えた。遊び人に見えた彼は、大手新聞のジャーナリストに、秀才君は経済畑に、最後の一人は消息がよくわからないが、ネットをさらってみてところ、年齢と名前の一致する人がいるので、おそらく医者のようだ。

 末は博士か大臣か、というのは、私らの世代でも古い。勉強の出来る人間は、医者、法曹界公認会計士、官僚など、になるので、官僚から大臣になったりする可能性はあるが、少なくとも、優秀だからそこまで行くとはだれも考えていない。だが、たとえ大臣になったとしても現実は……。こうした優秀な人間たちの、優秀さゆえに就ける職業について、それなりに活躍するのは当たり前のことではあっても、激越な驚きを呼び覚まさない。もっと途方もないことを期待してしまうのだが、しかしそんなことは現実には起きようがない。
 中学校での優秀さには、未知な面がいろいろとあって、まだ理系文系すらわからなかった。3人は、文系、半文系、理系と分かれたわけだが、どこへどう転んでも良かったはずだ。まさによくわからないからこそ、将来が楽しみで、どんな風になっているのだろう、と期待するところがあった。絵に描いたようなエリートであっても、エリート内での可能性はいろいろとあったろう。自分たちの希望は果たせたのだろうか。どんな挫折を味わったろう。どんな人生を、彼らは思い描いていたのだろう。しかし、行き着くのは、エリートであるがゆえに踏み外さない人生というものであって、はたから見ると、パターン通りでしかない感じがしてしまう。私は何を期待していたのだろう。
 博士なんぞというのも、間近にいろいろと見て、ろくでもないということがわかってしまっているが、それでもマッドサイエンティストに、一人ぐらいはなっても良さそうなものではないか。
 結局、そういう変なものを期待していたということか。記者だなんて……当たり前すぎ。
 自分はどうなのか? と言えば、変ということでは充分に変だし、それなりにユニークな仕事もしてきたが、いかんせん、社会的地位が低すぎる。あまりにも無用の人生。
 
 以前、振り返るといろいろな可能性があるようだが、実際にはこれしか道はなかったというものが人生だろうというようなことを、神林さんは言ったことがあるけれども、みんなそんな風に生きて、納得しているのだろうか。私は……頭では納得しても、身体の方はどうも納得してないみたいだなあ。