類型でまとめる

 『アムネジア』が出た頃、bk1のインタビューに同席させてもらうので、久しぶりに東と会ったら、「SFの人」になったのか、と訊かれた。なんじゃそりゃ。「SFの人」になるとしたら、若い頃にそうなっているので、今さら「SFの人」にはなりようがない。そういう意味ではなく、SF業界に身を寄せている(食べているという意味では、さすがに訊いていないだろう)という意味なら、それも違う。SFの中で批評活動をしているわけではない。『幻想文学』がなくなってからは、私の批評活動は、『ファンタジー・ブックガイド』を書き、SFMで翻訳物ファンタジイ時評をし、本の雑誌で二年間翻訳書時評をしただけだ。しかもそのときに継続している仕事が『世界文学あらすじ大事典』だったのだから、海外文学の人になったのか、と訊かれるならまだわかるのだが。
 確かにかなり「海外文学の人」っぽくはなった。だが、私は、大学時代に〈幻想文学〉という概念に出会ってからこっち、ずっと「幻想文学の人」である。東がほとんどが怪奇系フィールドで仕事をしていようが、「幻想文学の人」であるのに変わりがないように。まあ、私も「妖怪とオカルトの人」になったのか、ぐらいのことは東に言ったかも知れないが(笑)、それは「SFの人」よりは実相に近いだろう。
 以前にも書いたが、私の世界二分法は、まず、『幻想文学』の読者かそうでないか、というものである。勝ち組と負け組よりもなお数の隔たりが激しい。単純に人口比でいくと、三万人に一人とか、そういう勘定だ。だが、自分の周囲では、そんな比率にならないので、個人的な世界把握としては、これで問題がない。
 多少ゆるくして、幻想文学を好むか好まないか、という分類も出来る。幻想文学という概念そのものが、実はマイナーだったりして、私が自分で自分のことをそうだと知らなかったように、そうだと知らない人も結構いるだろう。たいていの読者はそういうことを気にしない。
 また、文学が好きかどうか、という項目立てもできる。このあたりの人までとなら、専門の話が出来なくもないし、世界の二分方として、私は有効だと感じる。男女の区別などは、この二分法の前では何の意味もない。
 本を読むかどうか、という項目立ても考えられるが、ここらから向こうは、世界の二分法としてはあまり実効力を持つようには感じられなくなってしまう。本を読まない知人がたくさんいるのだが、彼らと、読書が趣味の人とのはっきりした差異を私の中で立てられない。

 そういえば、「SFの人」という誤解を、ほかの人にも受けたことがある。だいたい人は何かのカテゴリーでその人を理解しようとする。彼はSFが好きな人で、比較的付き合い始めの頃に、たまさか彼の知らなかったSFを私が教えたために、そう思い込んでいたらしかった。『幻想文学』を作っている私が、どうして「SFの人」であり得ようか、と私は思うが、よそ人にはそうではないということなのだろう。私は幻想文学の一部としてのSFを愛好しているのであって、その逆ではないのだが、世間的には、SFの方が勢力があるので、幻想文学はその一部だと思われているのかもしれない。もしもそうであるならば、やはりまとまった形で幻想文学史を書きたいものだが、それには力不足だと感じる。東が書くべきだと私は思うぞ。

 世間一般から見ると、「SFの人」とか「幻想文学の人」などは数にも入らない。100人の村が流行った頃には、「文学の人」たちは四捨五入で消滅してしまう、という笑い話をよくしたものだった。しかしその内部にいると、「幻想文学の人」などとは大ざっぱな分類法だと感じてしまう。幻想文学が好きと言っても、同床異夢ということもあるだろう、と横山さんに言われたことがあるが、確かに幻想文学は茫洋としていて、同じ概念を共有しているのかどうか怪しいところがある。SFにだってミステリーにだって、ジャンルに対する齟齬があるのだから、まあ当然と言えば当然ではあるが。今は幻想文学というものが流行りのようで、この数年、日本文学に目を向けていなかったら、これまでは幻想小説なんか書いたことのない純文学の人も幻想小説を書くようになっている。それをこれから読まねばならないかと思うとげんなりするものがある。児童文学の分野にも知らないファンタジー作家がうようよしているし、ラノベでファンタジーではないものを探すのが困難だ。だが、私が幻想文学を好きなように好きなのだろうか? ということになると、もうわからない。それぞれ付き合ってみなければ何とも言えない。私が最も詳しいジャンル・ファンタジーの中でも、別世界ものは好きでも日常ものは嫌い、という風に、いろいろとあるようだし。
 一部では、現実感が稀薄なので、幻想の方が現実的に思えるのだとも言われたりするが、私は現実感が稀薄ではないので、そういうことはよくわからない。現実感が稀薄な人間は、幻想小説なんか好まない、というのは、古典的な理解で、今は違うのだろうか。
 この点に踏み込むと面倒になるので話は途中でやめるが、ともかくも、大ざっぱでも、同じものが好きな仲間だと思っていればいい。ファンにだって濃いのも薄いのもいる。そもそも、私の趣味嗜好がどうあれ、それを理解しようとする人も、また理解できる人だっていないわけで、大ざっぱな分類で充分なのだ。