伊藤整の文学論

およそ六十年前に書かれたエッセー集『小説の認識』から引用

 そして、現在、第二次世界大戦のあとにおいても、文学者のみならず、日本人の知識的な、または文化的な思考の型は、屈服か逃避かを基本形としており、一般民衆においては、論理よりも伝習が行為を決定し、自己の判断よりも支配者または支配者から与えられる型が尊重され頼りとされる。そしてもし、今の風俗小説、中間小説、私小説等の大部分をすなわち作家の発想の大部分を支配している衝動を分析すれば、多くこの型のいずれかの変形に帰着するように思われる。

 (かつての文学者の精神的様態が尾を引いているため)作家の意識の中における頽廃とは享楽の別名であり、絶望とは無関心の別名であり、恋愛とは無責任の別名であり、自我とは独善の別名である。
 現在の多くの小説に見出される人間意識は、他者を認識することを拒否することによるエゴの拡大を基本形とし、その反対の型としては、与えられた環境を批判せずに、単にそれを自己の鋳型として命令か運命のように受取り、いよいよ耐えられなくなると、それから逃れるか、それを抹殺しようとする、という型である。働きかける怒りは存在しない。批評せず、笑の対象とせず、風刺せず、ただ自己の環境を運命として甘受して、はかなみ愁うる人間のみがつぎつぎに現れる。これは現代、二十世紀の中頃の人間であろうか。然り、それが日本人なのである。(「中間小説の近代性」1950)


 延々と引用したい気分になってきたが……。当時の小説においてもそんな人間ばかりが現れるわけではないが、一方、21世紀の小説にもこんな人物像は珍しくない。そして21世紀の現実にもこんな人物像は掃いて捨てるほどいるだろう。