富岡幸一郎著『使徒的人間』

パウロの誰であるかさえ知らずに、カール・バルトの『ローマ書』を読んだ」と言う著者は、「使徒的人間」であるバルトに触れて、自らもまた召命を受け、「使徒的人間」となったのではないだろうか。本書はカール・バルトに完全に寄り添った形で書かれている。すなわち、キリスト者でなければ書き得ない内容になっている。神学的エッセーというか。これで、文芸評論という位置づけなのだろうか。もしもこれが文芸評論として認められているとすれば、日本の文芸評論は懐が深いと言えるだろう。
いわゆる「つまずいた」人間として、このような書物を書けることの幸福を思う。しかし、本書のどこにも、富岡の宗教的立場を明らかにした箇所がない(と思った)。自筆の年表にも受洗の記録は見られない。どうなっているのだろう。文芸文庫に年表を載せるような人物が、宗教的立場を明らかにしなくてもよいものか。
ところで、解説の佐藤優は、日本には戦前からバルディアンが多いと述べているが、バルト神学を読むとき、私はやはりキリスト者の知人を思い浮かべずにはいられないのである。日本では圧倒的な少数派であるキリスト者たらんとしたとき、バルトのある意味で過激な神学(純粋にキリスト教的である)は、寄る辺のない日本人キリスト者の支えになるのではないかとも思われるのだ。
それにしても、私は富岡の仕事をあまり読んでこなかった。世代はほとんど同じだが、非常に遠い、エリート……いや神学的な意味でなく……というイメージで。