ゲームの特集

幻想文学』でゲームの特集を組んだとしたら……という「お題」をちょうだいしたので、書いてみる。
文学以外のジャンルを特集したのは、映画と音楽で、演劇や舞踊などは特集していない。演劇も舞踊もナマモノで、劇場に足を運ばねばならず、特集を組めるほど観ていない。また、演劇は戯曲という形で文学としても取り上げることが可能である一方で、ナマの舞台は一回性のものであり、しかも観客参加の度合いが強いため、一般化しにくい。しかも、演劇は、その性質上、すべてが夢幻的であり、同時に幻想的でない。「すぐそこの舞台で演じられる」ということは、実は小説以上に非現実的(つまり夢幻的)である。しかし生身の人間が演じるという限界はあり、さまざまな場面で幻想を裏切るので、ヴィジョンの成立が難しい。
演劇のことを書くのではない。ゲームだった。ゲームはプレイするのに、大方の場合、小説の比ではないほど時間がかかる。従って、特集を組めるほどプレイしていない。ゲームの内容はファンタジックでも、プレイにはさまざまな肉体的制約が伴い、現実的である。ゲームの幻想性はしばしば、うまくいかない操作でぶちこわしにされる。その一方、ノベライゼーションも多数存在し、それについては文学として、ゲームとは切り離して考察することも可能である。ゲームは演劇にちょっと似た問題があるのだ。
そのような点をクリアして、特集を組めるほどの能力があると考えたところで、ゲームの特集はしなかったろう。『幻想文学』の読者層とは合わないからである。つまり、売れない。『幻想文学』の知り合いでゲームをする人の割合は低い。一方ゲーム評論を読むほどのゲーム好きは文学には関心がなかろう。どう転んでも売れない。
そこを押しても特集したとする。……と、何だか『ユリイカ』みたいな文化の検証めいたことになってしまいそうだ。
要するに、『幻想文学』のゲーム特集とは……実に奇妙な発想だと言えるだろう。もしも、今も『幻想文学』があったとして、今、ゲームの特集をするとしたら……というのも、実に奇妙だ。私は『幻想文学』というのは、その役割を完全に終えた雑誌と感じているからだ。つまり、需要がない。いろいろ書いたが、ちょっと言い訳しておきたかったのだ。とにかく、商業誌の目次を考えるのではなく、夢のような気分で考えてみる。
実際に書ける人、インタビューできる人に想像もつかないので、こんなことを考えてみた、ということだけ以下に並べる。ああ、評論は書ける人がいそうにないな。
小説とゲームの両様に関わり続けてきた安田均には、あれ(16号のエッセイ)からの25年を聞けるかな。具体的な名前が浮かぶ人はそれぐらい。

●歴史的展望のためのインタビュー①=RPGはいかに始まったか?〜トールキンの影響を中心に
●歴史的展望のためのインタビュー②=シェアード・ワールドという発想〜ラヴクラフトに始まる(のかな?)
●歴史的展望のためのインタビュー③=ゲームブックからノベルゲームまで〜ミステリーとしてのゲーム

●ゲーム草創期の人に聞く〜どうしてファンタジーだったのか。D&Dの真似だっただけのことか?
ドラクエを作った人に聞く〜ゲームにおけるファンタジーの意味とは
ひぐらしのなく頃にを作った人に聞く〜ゲームならではの恐怖の追求とは?

評論
●ゲームが独自に開いた幻想の地平を考える=ヴィジョンと臨場感★ミスト、ナイツ、ICO、モンハンその他
●ゲームだろうが文学だろうが変わらない幻想について考える=欲望充足の装置★美少女ゲームとハーレム小説
●ゲームと文学の関係について考える①=ゲームの登場する文学★鏡の国のアリスからナボコフまで、あるいは志怪から現代の純文学まで
●ゲームと文学の関係について考える②=ビデオゲームが文学に与えた影響★児童文学を中心に
●ゲームと文学の関係について考える③=ノベライゼーション研究
●ゲームと文学の関係について考える④=小説をゲームみたいと感じるのはなぜか? いつからそう感じるようになったのか? いつからそのようなものが書かれるようになったのか?


エッセイ★これが最もファンタスティックな(ホラーな)ゲームだ!
●ゲームに関わった小説家、ゲーム好きの小説家などに好きに書いてもらう。

●ゲーム類別
 ゲームを文学的側面(シナリオと世界観)から分類し、整理する。
 
 以上。ごめん、あんまりおもしろくないね。

(事典に竜騎士07を入れろといわれていたんだったが、また入れるのを忘れた……。)