金子みすゞ

先日の大波小波に次のような一文があった。

辺見庸和合亮一の詩集の言葉は、はたして一般読者の心に届いたといえるか。例えば金子みすゞほど被災者に浸透したか。

文脈、論旨を一切無視して、この点についてだけちょっと考えた。
まず、金子みすゞの詩がいつごろからかやたらポピュラーになったことは知っていたが、被災者の間で、特に感動を呼んだことは知らなかった。
金子みすゞの詩は、童謡的な雰囲気を持っていて、かわいらしいことはかわいらしいのだが、私はちっとも好きじゃない。「みんなちがつて、みんないい。」「見えぬけれどもあるんだよ、/見えぬものでもあるんだよ。」の如き、「生きててもいいんだよ」相田みつを風の内容がいいというのだろうか。それなら、相田みつをの説教でも読んでおればよい。詩なんてものは、内容以上に語り口であり言葉の感触であるわけだから、調子が気に入らなければどうしようもない。端的に言って、この七五調が気持ち悪い。朗読されたりするとぞっとしてしまう。しかし、七五調というのは、日本人的にはきわめて受け入れやすいので、小説でもエッセーでも、七五のリズムに近く書くと、すらすらと読まれる。詩なら一層そうなのだが、詩だからこそ、ダメなものはダメだと言うことにもなろう。
辺見の詩集は、あまりピンと来なかったが、和合の詩には、心動かされるものもあった。この震災で受けた傷を思えば、金子みすゞよりもいいと思うけどな。でも、被災者は、悲しみや怒りをぶつける手段よりも、慰められたいという思いを強く持っているということなのかもしれない。とはいうものの、肯定的な詩ばかりがいいとは言えない、何かぶつけるような言葉を欲する人だっているだろう。いつでも一般ですくってしまえば、つまり、大局的に眺めたり単純化してしまうと、こぼれ落ちるものがある。詩とは、まさにそのこぼれ落ちるものをすくう手段の一つだと思うのだけれど……。

余談だけど、慰め……ということで、私は春頃、「泣ける詩集」というのを企画した。しかしみごとにボツになった。時期を外したのでもう無理だけど……ボツならボツだと素早く決定してくれたら、ほかにも持っていけたのに。

そういう慰めの言葉を辺見は偽善的と言っているのだろうか。人は、一般的に偽善以上のことはできないものであると思うけれども(例外はいつもある)、偽善だって力を持っている。どれもこれも、言葉にかかわることは、一筋縄ではいかない。